夜の終わり(3)

その日からジンジャーにとって久々の共同生活が始まった。
とはいえ一方的に誰かの世話になっているわけでもなく世話をしているわけでもない、気楽な生活ではあった。もちろん仕事はあるが、頭ごなしに命令されるわけでもなかった。
パーティの活動は主に姫が仕事の話をどこからか持ってきて、それをサーシスが交渉や調整した上でメンバーをアサインして実行に移すというのが基本だった。メンバー全員で行くこともあれば、誰か一人だけということもあった。できないと判断した仕事は断ってもいいとは言われたが、幸いにもそのような案件は今のところなかった。内容は魔物退治やダンジョン捜索を始め、要人の護衛や暗殺、金品の奪回(窃盗かもしれないが、原則”奪回”案件のみを承っているとのこと)など。時にはお得意様のお願いで断れないということで豪邸の庭掃除のようなものまであった。
メンバーはみんな一癖あったが、悪いやつらではないというのがジンジャーの総評だった。
サーシスは初対面でこそかなり紳士的で穏やかであったが、実際はもう少しざっくばらんで雑な男であった。さらに危険な作戦中などは軍隊めいた厳しい一面を見せる。とはいえ普段は面倒見がよく掃除や炊事も率先して行ってくれていた。作る料理が致命的にまずいのだけはジンジャーにとって明らかな欠点だった。そういえば彼はジンジャーを忍者と呼ぶ。最初はそれが嫌だったが、彼が仲間を誰も本名で呼んでいないことに気づいてからはそういう人もいるのだと納得していた。
ファハドはあの見た目の上に物腰が丁寧で、初めは上流階級の出かと思い強い劣等感のようなものを感じ正直苦手であった。出自については当たらずとも遠からずのようだったが、話せば中身は案外普通というかだいぶ変わっているというか、とにかく最初に感じたような煌めく人種ではなくそこそこ付き合いやすい相手だったので苦手さは薄らいできている。射撃の腕はジンジャーも感嘆するほどでなるほど彼は顔だけで在籍しているわけではないという納得と、天が二物を与えていることへのやっかみのようなものは根強くはあった。
侍のキヨシローは、何やらずっとぶつぶつと呟いているうえに目も虚ろで、最初に会った時はぎょっとさせられたものだった。だが、どうやらその態度が極度の怯えから来ていることを知り、また彼の中身自体は下手すると他のメンバーの誰より謙虚でまともでもあったので、最近は小動物の面倒を見るような気分になってきている。ただし、一旦戦闘に入るとその強さは東方風に言えば「鬼神もかくや」であった。普段の挙動不審さ故に他のパーティに奪われていない逸材といったところだ。
姫と学者については、姫が見た目とは裏腹に中身は女の子らしさは皆無でどこか掴みどころがないことと、学者が姫に大変入れ込んでいてもはやストーカーの域であるということだけがわかった。ふたりの能力についてはジンジャーにはいまいち判断できないが、一度も回復面で困ったことはないので十分なのだと思う。向こうも特別にジンジャーに興味があるわけではなかったので、ジンジャーのほうでもあまり踏み入れずにほどほどの距離を保っている。
もうひとり、正規のメンバーではなくたまに構成や内容の関係で顔を出す竜騎士がいたが、あまりにも相性が悪かったのでジンジャーの中では半ば存在しないことになっている。

ジンジャーがもっとも興味を抱いていたのはサーシスだった。
単純にリーダーではないもののこのパーティを仕切っている男とはできれば要領よく相対したいという考えがある。それとは別にとにかく何か彼のことを知りたいという気持ちがあったが、その理由についてはジンジャー自身にもわからなかった。
とある晩、寝るような時間になってからキヨシローの部屋に入っていくサーシスを見かけたジンジャーは、そそくさと自室に戻ると壁に器具を押し付け耳を当てた。それは使い慣れた盗聴用の道具であった。
「仲間の話を盗聴するな、とは言われてないよね」
そもそもこの家、内側はめちゃくちゃ壁薄くて気になるんだよねえ……とジンジャーは内心で漏らした。元々耳がいいジンジャーなので、左右の隣部屋での音はある程度聞こえ、内容まではともかく誰と誰が話をしているかまでしっかりわかってしまうありさまだった。おそらく防犯上の、もしくは情報漏洩を抑える理由なのだろうが、ジンジャーとしてはうるさいというよりも好奇心を刺激されて困ったものだった。
とはいえ、キヨシローが他人と会話らしい会話をしているのをほとんど聞いたことがない。そう思うと余計にあの二人がどんな話をしているのか気になった。
「……大丈夫だ」
道具を介してサーシスの穏やかな声が聞こえて、なんとなくジンジャーはドキッとした。子供をあやすようなその声は彼が聞いたことがないほど優しいものであったから。
それにキヨシローが何か応えたのかは聞こえなかったが、そのうち彼のすすり泣くような声が聞こえてきた。ジンジャーはそれが泣いているのではないことにすぐに気づいた。これは”あの時”の喘ぎ声だと。
――え、サーシスの恋人ってこっちだったの?意外な趣味だな。
最初に思ったのはそんなことだった。何しろキヨシローがああなので、普段からサーシスが彼を気にかけているのは感じていたがそれが恋愛感情だとは思いもよらなかった。そういう意味では別に性行為をしたからといって恋愛関係にあるとは限らないのはほかならぬジンジャーはよく知っているのだが。
サーシスは容姿を第一に考えるタイプではなさそうだということにちょっとがっかりする自分と、どこかでほっとしている自分がいることに気が付いてジンジャーは舌打ちした。今、ジンジャーは誰から見ても間違いなく美青年だ。自分の見た目がよいことも気に入って欲しいと思っていた。
ジンジャーが思いを巡らせている間も、隣の部屋では睦ごとが続いていた。その最中でもサーシスは相変わらず優しくいたわるような声をかけているようだ。
――でも、これは、恋人同士というより……
それはまるで、母親が泣く子をなだめているかのような音を持っていた。
「大丈夫だ。俺が傍に居てやる」
ジンジャーはこれまでの人生で、そんな言葉を言って貰ったことはなかった。
突然ひどく虚しい気分になってジンジャーは壁から離れた。盗聴自体は嫌いではないがそれは好奇心が旺盛なことと情報収集が好きだからというだけで、性行為を覗く趣味はない。
それに、サーシスが他人に優しい言葉をかけているのを見るのはなぜだか切なかった。

その日、ジンジャーは夕方からひとりで飲みに出かけた。
相変わらず遊ぶのは好きだが最近はパーティの仲間とつるむことも増えてひとりで出かける機会は減っていた。
だが今日はサーシスはファハドとキヨシローを連れて仕事に出かけていた。翌日もオフ日だったのでジンジャーは久々に誰かを引っかけて夜通し遊ぶつもりだった。最近ちょっとご無沙汰している取り巻きの誰かに声をかけてもいいのだが、少し気分転換をしたいとも考えていた。
そこでいつもの店がある方ではなく、もっと下町の、言うなれば少々治安の悪い界隈の酒場へと向かった。先日もかなり難度の高い魔物討伐をこなしており、この街で自分に危害を加えられるレベルの人間はそうそういないという自負もある。
海賊くずれの群がる屋台や、覗いてはいけなさそうな建物の隙間の暗がりには目をくれず歩いていくと、立派な看板を出している小綺麗な店を見つけた。
店内には何か甘ったるい香りとタバコの煙が漂っており、かなりの賑わいだった。こういった店では新しい入店者がある度に店内の人間の視線が集まるもので、ジンジャーもまた例外ではない。そして自分が入ると必ずざわっと空気が揺れることを知っていて、澄ました顔で空いた席を探した。
とある一団が手招きしてるが、多数対1はパスだと思い小さく首を振って応えた。ふとカウンターを見ると大柄なハイランダーの青年がまっすぐこちらを見ていた。ひとりのようだし、なかなか爽やかな好青年に見える。
その隣のスツールが空いているのを見てジンジャーはそこへ向かった。
と、男は間髪を入れず店員にエールを二つ頼み、ジンジャー席へ着くやいなや銀色のゴブレットがふたりの前に置かれた。男はそれをジンジャーに勧めながら笑いかける。
「びっくりしたな、こんな店に季節違いの花が咲いたかと思ったよ。乾杯」
「乾杯。嬉しいこと言ってくれるね。でもハイランダーって、もっと素朴なこと言うんだと思ってた」
杯を合わせながら、かなり遊び慣れてる男だな……とジンジャーは相手を評した。ジンジャーの方も完全に遊びなのでその方が都合はいいのだが。
ふたりはしばらく他愛のない話をした。どんな酒が好き?今日は楽しいことはあった?この街は長いの?海が綺麗に見えるところは知ってる?時折相手が自分への賛辞を挟んでくるのをジンジャーは心地よく聞いていた。男はどうやら冒険者であるが、スラム育ちなのでこの辺りのほうが落ち着くのだということだった。今はまったく違う生活をしているが、昔を思えばその気持ちはジンジャーにもわかる。
3杯目の酒を飲み干した頃合いで、相手が切り出した。
「よかったらどこか他の店へ行かない?ここは騒がしいしね」
「いいよ。いいところ知ってる?」
ほろ酔いで楽しい時間を過ごせて、ジンジャーとしてはもはや直接部屋に誘われてもいいくらいの気分ではあったが2件目も悪くない。

夜風は冷たくも暑くもない心地よさで酔いを醒まさずいられそうだった。そう思うと男にさりげなく肩を抱かれた。タイミングがうまかったので逆に嬉しい気分になり、そのまま受け入れて歩いていく。
途中で顔見知りの相手を見かけたが、犬猿の相手であったので軽やかに無視する。どうやら向こうも同様だったのでムードを壊されることもなかった。
だいぶ外れまで歩いた辺りの一角に、見落としてしまいそうなくらい小さなバーの看板が出ていた。男が扉を開けるとそこは廃墟めいていたが、地下へ続く階段から灯りと笑い声が洩れてくる。
「小さな店だが、マスターが知り合いでね」
「へえ……」
男に伴われて階段を降りると、マスターと思しき人間がカウンターにおり数人の男たちが思い思いの場所に座り飲んでいた。間口から想像するより広い空間にくゆる煙はどことなく不思議な香りがする。カウンターにはスツールではなく背もたれとひじ掛けがついた少し特徴的な形状の椅子が並んでおり、フロアには大の男でも並んで寝られるような広いソファがふたつあるのが目についた。
「おい、えらいべっぴんさんじゃないか」
「これから仲良くなるところなんだ、あんまり失礼なこと言わないでくれ。いつものを」
笑いながらマスターに声をかける男を見やって。ジンジャーはもう一度店を見回した。男たちは海賊でも労働者でもない風情だった。ここに連れてきた男と同様に冒険者の仲間か……?と酔い気味の頭でも観察は忘れない。
椅子に腰かけると存外深さと細さがあり、脚は動かしにくいが身体はフィットして楽であった。こういう椅子もありなのかもしれないが、体型を選ぶのではと余計な心配もする。
どうぞ、ととてもこんな店とは思えない美しい花のついた華奢なグラスがジンジャーの前に置かれた。洒落てるじゃないか、と思ったが何とはなしに花の香りを感じた瞬間一気に酔いが醒めた。
――この花の香り、麻痺薬だ
出会ったばかりのよく知らない相手と関係を持つのには抵抗はないが、薬で抵抗できない相手を犯す輩はご免だった。
立ち上がろうとしたその時、「しまった」と思った時には遅かった。後ろから腕を捉えられ動きを封じられたのだ。
「さすがに引っかかりはしないか。ま、十分隙だらけだったけどね」
最近は腕も上がっていたし難しい仕事でも失敗知らずで、たとえ多少おかしなのに絡まれたとしてもそこらの相手に負けることはないと完全に油断していた。
「やっぱりな。こーんなもの持ち歩いてる。楽しい夜には無粋だぜ」
胸元に忍ばせた苦無を引き抜かれ、床に捨てられる。
腕は拘束され印を結べず、椅子の形状のせいで蹴りも反動をつけて起き上がることもできず身動きが取れなかった。ただのケンカ上手ではなく、自分の攻撃動作をうまく封じられていることに気づいた。彼らは、ジンジャーの”動き”を知っている。
――こいつら、忍者……だ。
一対一ならばそうそう負けない自負はあったが、格下でも忍術使いが数人は少々分が悪い。しかしまさかこんなところに忍者が複数いるなど思いもしていなかった。忍者は発祥の地であるドマとひんがしにはいくつかの宗派と複数の里があるとは言われていたが、エオルゼアにはいまだ正式にそういった場はない。いるとすれば数少ない渡ってきた忍者、もしくは抜け忍に師事したものだけだ。
「なん、で……お前らなんかが、どこで忍術を……」
「昔、クスリ欲しさに秘伝をばらまくバカな忍者先生がいたんだよ。随分荒っぽい教え方だったがまあ感謝してるよ」
その言葉を聞いてジンジャーは衝撃で頭がぐらぐらした。それは、それはまさか。ヒサメの姿が脳裏に描かれては消えた。
呆然としているうちに何やら相手は準備を始めたようだ。見覚えのある器具と粉。
「いいねえ、強い冒険者を組み敷いてみたいって珍品好きのお客様が大喜びだ、しかもこの顔だ。高値がつくぜ」
「まずは品定めさせて貰わねえとな」
「この見た目ならぶっ壊れても買い手がつくだろ。死なない程度にたっぷり嗅がせてやれよ」
ヒサメの遺した負の遺産に呆然としていたジンジャーだが、彼らが何をしようとしているのか気づき慌てて逃れようと四肢に力を入れた。だがびくともしない。
「やめろ……やだっ」
髪を掴んで無理やり顔を煙に向けさせられ、口をふさがれた。それが何を意図するかわかっているのに苦しさのあまり鼻から息をしてしまう。薬物の煙が鼻腔に充満して、通常の煙とは違う刺激にむせると同時に眩暈がした。
「やめろよ、やだ、こんなのいやだ、やら、や……」
急速に頭が痺れて自分のろれつが回らなくなっているのを感じた。また同じように押し付けられ、再び吸引してしまう。二度、三度、笑いながら同じような仕打ちを受けた。
と、星のようなきらめきが視界に飛び交い初め、感覚がひどく澄み渡ってくる感じがした。体が軽く今ならこの連中すべてを打ち倒せるとも思ったが、なんだか楽しい気持ちになってきてこのままで別にいいと思った。そしてもっと触れて、おかしくして欲しいという気持ちも沸き起こってくる。
――こんなの変だ。薬のせいだ、いやだ、気持ちいい、やだ……
いつの間にか抗う力は消え、服をはだけられながら男たちにもたれかかっていた。椅子からソファへと促されるまま移動して寝転がると、伸びてきた複数の手が普通なら簡単に触れることを許さないところを好き勝手にまさぐっていく。
「イヤ、じゃねえだろ?もう触ってほしくて腰くねらせてるじゃねぇか」
「見ろよ、すました顔してすげえ刺青してやがる。こんな体でヤクが初めてもねえだろ?もっと追加してやれよ」
そんな声と複数の笑い声が降ってきて、よくわからないままジンジャーもくすくす笑った。何をされているのかわかるようでわからなく、ただキラキラと周囲が輝き、幸福感と気持ちよさが込み上げてきてたまらなくなる。
早くもっと刺激をちょうだい、と思った。そう口走ったのかもしれない。何かが遠慮なく体に入ってくるのを感じて、ジンジャーの心身は悦びに満たされた。
すぐそばで誰かが聞いているだけで恥ずかしくなるような浅ましい声で喘いでいる声が聞こえた。それはヒサメの興奮しきった声が記憶に重なり、心の奥底がぞくりとして一瞬意識が引き戻される。その声を出しているのが自分なのだと気づいてジンジャーは薄れる最後の自意識の中で悲鳴を上げた。
――……助けて、サーシス……

その後のことはほとんど覚えていない。
煌めくような多幸感と激しい快楽の波に何度も襲われてわけが分からないままぼんやりとしていた。突如快楽の波が途絶え、何か大勢が踊るような騒ぎを目の当たりにしていた気もする。気づけば誰かに抱えられどこかへ向かっていた。辺りは少し明るくなっている。
なにも思い出せないが自分が何か悪いことをしてしまった感覚だけを覚えていて、楽しい気分が引いた今罪悪感でいっぱいになっていく。
自分を抱えている相手を見ると、ヒサメだった。その若く怜悧で鋭い顔にジンジャーは見惚れる。
――そうだ、自分がへまをして……先生が助けてくれた。
「ごめんなさい、先生……」
口がうまく回らなかったが、そう呟くとヒサメはこちらをちらりと見た。謝罪を口にすると堰を切ったように涙があふれてきた。体中がひどく重く、ただ自分の無力感だけがのしかかっていた。
「ごめんなさい……」
ヒサメは歩みを止めるとそっとジンジャーの涙をぬぐい、なだめるように口付けした。
「大丈夫だよ」
その瞬間、ジンジャーの中で記憶の泡がひとつはじけた。同時に相手の姿が急速にぼやけてにじんでいく。
――先生じゃ、ない……
決してヒサメが自分に口付けをするはずがなかった。そうだ、彼は――

「……過剰摂取で一時的にショック状態だったがとりあえず落ち着いたようだ。精神安定剤を処方しておこう。それから、ひと月は外出は避けたほうがいい。この薬は大変依存性が高いものだ、落ち着かないうちにわずかな成分でも再摂取すると常習率が跳ね上がる。……街の空気は案外綺麗ではないからな」
「わかった」
誰かがそばで話しているのが聞こえた。それは知らない声ではあったが、返事をしたのはサーシスだとわかった。
「じゃあ、私はこれで。何かあれば連絡をくれ」
白衣の男は眼鏡をしまいながらそう言うと足早に部屋を出ていった。その足音を聞きながら、ようやくジンジャーは口を開くことができた。
「サーシス……?」
「気がついたか」
「……ごめん、クスリ……でも、ここに居たい……」
開口一番その言葉がこぼれた。意識が朦朧としている中でずっとそれだけを言わねばと思っていたのだ。それを聞いてサーシスはわずかに目を細めたようだった。
「お前が自分からやろうとしたんじゃないのはわかってるし、蹴り出したりしないから心配するな」
ジンジャーの目からは涙があふれた。追い出されない安堵とともに、今度は別な恐怖に襲われたのだ。
「どうしよ……癖になったら……怖いよ」
いつもは少々斜に構えていて大人っぽいところもあるジンジャーが、子どものように不安がっている。その様子を見て、サーシスはくしゃりと髪を撫でた。
「大丈夫だよ」
ジンジャーの心が波打った。
この声、やっぱりサーシスだったんだ、と朧げな意識の中で聞いた言葉を思い出す。
「ちゃんとお前が嫌だと思ってるならな。しばらくすれば薬の影響は抜けるそうだ。ただしひと月は部屋から出るなよ」
「……うん、わかった」
「それから、この薬を1日2回飲んどけ、だそうだ。サボるなよ」
ジンジャーは素直にこくりとうなずいた。
「ねえ、シス」
その呼び方をジンジャーがしたのは初めてだった。そもそも「シス」という呼び方は姫だけが時々していたものだが、サーシスは特にいぶかしがる様子もなくいつも通りに返事をした。
「どうした?」
「……もう一回、大丈夫って言ってくれる……?」
いつになく弱弱しい声の忍者の顔をそんなことかとでも言いたげに見返すと、サーシスはベッドに軽く腰かけた。さらりとジンジャーの前髪をかきあげて頭に優しく手を置く。思ったよりもサーシスの手は冷たいと思ったけれど、それがなんだか心地よくてジンジャーは目を閉じた
「大丈夫だ。俺がついてるよ」
声はあたたかいと思った。その時サーシスがどんな表情をしていたかは見えなかったが、その言葉はじわりと身体に沁みて何か過去の氷を溶かしていくような、そんな感覚があった。冷たく自分を見降ろす、大好きだった男の姿が急速に色あせていく。
「……さ、もうしばらくは寝ておけ」
その言葉が眠りの呪文であったかのようにジンジャーは再び意識が溶けるように眠りについた。それは深い眠りで、その部屋を出たサーシスが外で控えるファハドに淡々と出した指示までは耳に入らなかった。
「アフガン、もし忍者が外に行こうとしたら足を撃て」
「イエス・サー。止まらなければ足以外でも?」
「任せる」

ひと月をこの小さな拠点内で過ごすのは想像以上に苦痛なことだった。
突然薬を使った時の多幸感と快感の思い出だけが脳裏に蘇ることがあり、それは強烈な渇望と体調の悪さを伴い、その度にベッドの上でのたうち苦しんだ。薬が欲しいとは言わなかったが、何らかの救いを求めて街に向かいたい気持ちになったことはあった。
それでも顔を変えたときのことを思えば苦痛の頻度は少なく、声をかければ仲間が様子を見に来てくれる。ひとりきりではなかった。
何より今はサーシスのそばに居たいという願いがある、ジンジャーはそう思って耐えていた。たとえ彼が他の誰かと付き合っていたとしてもだ。以前の自分のようにサーシスの好みに変わろうとはもう思わないけれど、それでもそばにいることはできるはずだ。
最初は永遠に続くかと思った発作も次第に頻度が減り、この数日はまったく襲われていなかった。ほぼ薬の影響はなくなったようだ、と久々に訪れた医師も告げた。
薬に勝てたのだ、ということはジンジャーを心の底から安心させ、また自信を取り戻させた。そして今度は、もし想う相手が道を外れそうならば殴ってでも救えるようになりたいと願った。願ってしまった。

――もう、あの頃の僕はいないんだ。

ジンジャーはヒサメの指輪をそっと指から抜いた。

――これはもう要らない。売っちゃおう。治療費もかかったろうしね。

そして指輪に語り掛けるように、小さく小さく別れの言葉を呟いた。
「バイバイ、先生」

好きな人が、できたよ。