「雪笹(ユキザサ)、今日は掃除はもうよい。こちらに来い」
「はい、お師匠」
まだ七つになったばかりの雪笹がかじかむ手をさすりながら霜の下りる庭を掃除していると、師の三葉(みつば)が声をかけてきた。
言われるままに三葉の後をついていくとその行く先は洗い場で、そこには下働きの女がわかした湯を持って待ち構えていたのだった。
「のえ、これを頼む」
「これはまあ、随分と洗いがいのありそうな」
のえと呼ばれた女はからからと笑うと雪笹の手を引いた。女の傍らにたっぷりとやわらかな湯気を立てる透明な湯があるのを見て、雪笹はうろたえる。まだ雪がちらつくこともあるこの季節にさすがに水を浴びるわけにはいかないが、湯をわかす燃料は貴重だ。雪笹はぬるくなった残り湯で体をふく程度がほとんどであった。
「これで湯あみを? わたしなどにもったいないです」
「いいんだよ。今日はねえ、あんたは大事なかたにお目通りするんだからうんときれいにおし」
「大事なかた?」
雪笹が不思議そうに聞き返すと、三葉とのえは軽く目を合わせた。のえは目を細めてからほほほ、と笑う。
「今にわかるさ。この館で一番大事な方だよ、さあ言うことをお聞き」
この館で一番大事な方といえば女主人の藍晶(ランショウ)だが、その藍晶には目通りしたことはある。何か特別な日なのかもしれないが、もっと別な人物であるように思えた。
『もしかしてお殿様…!?』
雪笹は藍晶の夫というこの国の主を見たことはなかった。そもそも藍晶はあまり世に出ない身であり、何か必要があれば藍晶がこそりと出向くのが常であったからだ。そんな主が渡るのであればもっと館の空気が違ってもおかしくないが、藍晶がそうであるように極々内密でのお出ましなのかもしれないと思い直す。
清潔な湯でしっかりと足の指先や髪の根まで洗われ、冷たい空気の中震えているとこれに着替えろと着物を渡された。
まだ雪笹の体には少し大きい、だがお古ではなく仕立てたばかりと思われる着物であった。きれいに洗った体で新しい着物に袖を通すと妙に背筋が伸びた。やはり殿様にお目見えさせていただけるのだ、と思った。理由はわからないが大変なことである。
再び師についてこいと言われ、奥の間へと進む。貴人の部屋から流れてくる、火鉢があたためた優しい空気とともになんともいえない良い香りが頬を撫でた。包み込まれるようで、寒さと緊張で固くなった心身が少しだけほぐれる気がした。
「藍晶さま、参りました」
「来たのね。ゆきざさ」
三葉が告げるとすぐに、衝立の向こうから藍晶の鈴のような声が部屋に響いた。
「こちらにおいで」
不安そうに師の顔を見上げると三葉は神妙な、だが決して厳しくはない表情のままうなずき、雪笹の背を押した。
「し、失礼、します」
雪笹は声を震わせながら衝立の横に膝で進むと、中を見てしまわないように急いで頭を下げた。普段はそこまで固い場ではないのだが、国主がいるのではないかと思ったからだ。
「顔をあげて。そんなにかしこまらないでいいのよ」
その言葉に恐々と顔を上げると、そこには藍晶と何かを抱いた侍女の紗江だけが座っており雪笹が思っていたような大人の男性の姿はなかった。不思議そうな顔をしたのが伝わったのか、藍晶はふふふと笑って紗江に目配せした。紗江もまたにこりと微笑み、雪笹を手招きし腕に抱いたものを見せるように差し出した。
「…?」
促されるまま覗き込むと、そこには雪笹が初めて見る小さな小さな人間がいた。
藍晶によく似た白い肌にまだ薄いが春の陽光ような髪、雪笹をまっすぐに見つめた瞳は芽吹いたばかりの若草のようだった。これから立派に伸びるであろう、小さなでっぱりのような角も見える。
「こ、このかたは…」
その小さき人と目が合ったまま視線を逸らせず、雪笹は半ば独り言のように問うた。
「先だってお生まれになった、雛菊(ヒナギク)様ですよ」
紗江が囁くように答える。
「ひな…ぎくさま…」
藍晶がここしばらく臥せっており、先月赤ん坊を生んだということ自体は雪笹も知っていた。甘い餅が一番下の使用人まで振舞われ、雪笹も幸せをかみしめたばかりだった。
この方が…と思いながら名を繰り返すと、不意に雛菊が雪笹に向かって小さな手を伸ばした。何かを求められたような気がして、思わず雪笹も手を伸ばす。と、小さな小さな指が雪笹の指をしっかりと掴んだ。
「わ…わ…し、失礼を…」
自分で差し出したものの驚いて手を引っ込めようとするが、雛菊の手はがっちりと雪笹の指を掴んで離れない。振りほどくわけにもいかず、雪笹は途方に暮れて周りの大人たちを見回した。
しかし藍晶も紗江もさも楽しそうに笑っており、あろうことにかあの厳しい三葉までもが笑いを堪えるように目を細めて雪笹を見下ろしていた。
「ふふ、ゆきざさのことが気に入ったのね」
「藍晶さま、わたしは、どうしたら」
藍晶はもう一度ころころと楽しそうに笑うと、そっと少年に近づきその頭を撫でた。
「そうね、ずっとそばにいてあげて」
「それは…」
三葉が言葉を繋ぐ。
「雪笹、今よりお前がお仕えするのはこの雛菊様だということだ」
「わたしが、お仕えするかた…」
先ほどの緊張とは違う、心がぱっと明るく燃えるような衝動で声が震えた。一生をこの方のために捧げるのだと、そのために師はあれほど厳しい修行を積ませたのだと突然すっと空が晴れたように納得できた。
「ゆきざさ、この子をよろしくね」
いつものように軽やかな声で、だがいつもよりも何か重い響きを含んで、藍晶はもう一度雪笹の頭を撫でた。雪笹は深く深く頷く。
「はい…お任せください。ずっとお支えします」
その言葉が通じたのか、雛菊は今までずっと掴んでいた手にさらにぎゅっと力を込めた。その力の強いこと。
「あ、いた…痛いです、雛菊様…っ」
困りきった雪笹の悲鳴に、大人たちはまた弾けるように――今度こそ三葉も笑いだしてしまった。そこに雛菊の笑い声も混ざり、一足早い雪解けのように館中に明るい気配を広げていくのだった。
その穏やかな日の光景を雪笹は生涯忘れることはなかった。
どれほど絶望に見舞われた過酷な戦いの中でも。
おわり