機会は突然、別の方向から飛び込んできた。それはイッセイを通してソルクトータからもたらされた報だった。
当人はまったく異なる事情でウルダハの犯罪組織を追っていたようだが、そこでクガネとやり取りがある組織ひとつを突き止めた。それを潰すのが仕事ではなかったが、その組織が請け負う”闇の仕事”の中に、物品の輸送とともにとある子どもの殺害依頼が入っていることを知って急ぎイッセイに連絡をしてきたのだ。
それは、あの事件を目撃した少年であった。
ソルクトータからの伝言は、『海賊衆にも連絡は入れたので無事であるとは思うが、何かあれば気にかけて欲しい』ということだった。同時に深入りはしないようにとも伝えられたが、それを聞いたゾンは取り引きの日が近いことを悟ったようだ。
しばらくサカエ屋の近くで張っていたゾンだが、その数日後に宵の仕事に取り掛かっていたイッセイの元に現れると、ただ一言告げた。
「今夜だ」
この日もまた、満月であった。青白く清浄な光はまばゆく辺りを照らしている。
通常外国籍の船はまず紅玉台場で補足され、そこを経て既に交易をしている登録された貿易船は第一波止場へ、その他の船は第二波止場へと入港して荷や人を検められる。それはどこのどういった船であっても同じであった。
だがこの取り引きは小波止場から国内用の小舟を使い、台場から死角となる沖合の船上で行うことで検閲を免れていたのだった。夜の海は真闇だが、この光があれば灯かりを点さずに船を操れる熟練の船頭もいると聞く。そして晴れた満月の日と取り決めておけば、毎度わざわざ連絡を取らずとも取り引きが行えるというわけだ。
もちろんクガネ側もまったく気づいていないわけではないと思われたが、こうも長く続いていることを見るといろいろと”うまく”やっていると考えられた。
そもそも第一波止場、第二波止場に比べてここは使われる頻度が少なく、今は空き船が少し停まっているだけで人影もなかった。見回りの時間も緩く、一刻ほど前に眠たげに灯りを掲げた隊士が通っただけである。
と、白く光る波間に黒く小さな船の影が浮かび上がり、小波止場のはずれに静かに入ってきた。
手慣れたように四人が降り、船頭らしき人物が深々と頭を下げる。小舟が再び海へと消えたのを見やって、それまで物陰に潜んでいたゾンが動いた。
「行くのか」
「白角、海には落とされるなよ」
ゾンはそれだけを傍らのイッセイに告げると、その船着き場から陸の広場への階段を上った辺りで堂々と姿を現して道をふさぐようにして立ちはだかった。
それに比べイッセイはまだ心の準備ができていなかったが、ままよ、と横に並ぶ。
突如目前に現れた男二人を前に一団は足を止めた。
「何か御用でしょうか」
奥のやや小柄な男が、頭巾の内から穏やかそうな声を出した。
「サカエ屋の番頭オガツジだな。貴様に聞きたいことがある」
やや間があったが、相手からは変わらずのんびりとした返事が返る。
「たしかに私はオガツジでございますが……」
ゾンの経験からすると、これだけの悪事をなす人間にはそれなりにまとう空気があるものだ。だが今そこにいるのはとても悪事、ましてや人を殺す度胸があるようには思えない単なる好々爺のように見えた。
やはりこの人は無関係なのではないかとイッセイは思ったくらいだが、ゾンは自らの考えを変えていない。
「ずいぶんと物騒なものを抱えながら、よく言う」
また少し間があった。
「……この通り、彼らと夜の海を眺めていただけですよ。今宵の満月は素晴らしい」
困ったように微笑む老人、オガツジは手前の背の高いふたりに隠れるようにしながらも依然柔らかな口調でそう告げた。それをねめつけてゾンが声を響かせた。
「ほう、貴様より顔の蜘蛛のほうが嘘を吐かなそうだな」
犯罪組織に関わっていることはわかっているのだ、というゾンの意図はどうやら通じたようで、男は少し考えるような顔をしたが、次の瞬間イッセイでもわかるほどに空気が変わった。先ほどまでの優しくどこか気弱そうな気配がふっつりと消える。
「そうか、そうか……そこまで知っておるか……」
笑顔を張り付けたまま、オガツジは何度か小さくうなずいた。
まだ迷いもあったがイッセイは気持ちを改めるように背筋を伸ばした。何かを押さえつけるように震えが残ったまま、だがはっきりと声をあげる。
「突然失礼する。自分はクロガネのイッセイという。昔、このクガネであったクロガネの家の事件を覚えているだろうか。あなたが刀を渡し香を嗅がせた年端もいかない娘が、何をしたかを」
こんな時に本名を名乗るやつがあるかとゾンは渋い顔をしたが、止めてどうなるものでもない。元よりゾンは相手を皆殺しにするつもりでここに来ていたので、何を知られようと問題はないとも言えた。
「それは本当にあなたの指示だったのだろうか。そしてそれが真実ならば、その娘に、ミナミに詫びる気持ちはないだろうか。保身のために罪なき少女を巻き添えにして、すまなかったと……」
イッセイの声は決して大きくはないが、波にかき消されることなく静かに響いた。ゾンは改めてイッセイを甘いと感じたが、それがこの男らしい部分でもあると思うと嫌悪感はわかなかった。
「ふむ……」
正直なところイッセイは、オガツジは自分たちのことなど覚えていないのではないかと考えていた。まっとうな暮らしをしている人間ならば決して忘れられない事件だろうが、情報通りであれば相手は多数の犯罪に関わっている悪党なのだ。忘れられてなるものかという思いと、知らぬと言われた方が楽かもしれないという思いが、複雑に絡み合う。
だが、その葛藤はオガツジの次の言葉で両断された。
「ああ、ああ、思い出したぞ。あの金に汚い鼻つまみ者の子倅か。父親の図々しさときたらひどかったが、息子もそっくりだのう……刑場で死んだかと思っていたぞ。戻ってきたと知っていれば消してやったものを、こそこそと虫のように鬱陶しい」
あくまでも穏やかなまま、笑顔のままで語れる言葉とは思えず、イッセイは耳か目のどちらかを疑いそうになった。
「そうじゃな、あの娘は高く売れそうだったが、あのように傷ものではなあ」
笑顔というのは人の持つ光だと思っていたが、これほどまでに暗くおぞましい笑顔もあるのかとイッセイは思う。
「なん……だと……」
「それでも仕込めば商品になるかと思えば勝手に死におって、親子ともども実に役立たずであった……」
瞬間、イッセイは自身が内から爆発したと感じた。烈火のような憤怒が体中から吹き上がるようだ。今にも飛び掛かって首を絞めてやりたいという衝動で体が震え、知らずと足が前へと踏み出そうとした。
「イッセイ」
と、一言。
ただ一言横の男に静かに名を呼ばれ、イッセイは瞬時にすべての感覚が引き戻されるのを感じた。全身の力を使って呼吸し、心と頭を落ち着かせる。
この男を許せはしない、だが焦るな。無駄に死に飛び込むな。
「だい、じょうぶだ」
まだ燃え盛る胸中を必死で抑え込み息を整えながら短く返すと、その一歩前に出たゾンは一瞥もしないままうなずいた。
「ほう……罠を見抜くか。つまらないのう」
よく見れば相手の足元には忍びの紋が浮かんでいた。おそらくそのまま踏み込んでいたら傷を負っていただろう。
「まあよい。たまには剣舞を見るのも面白かろう」
「なぜ、なぜ人を傷つける。なぜ殺める」
イッセイの戸惑うような叫びに、オガツジはさして面白くもなさそうに答えた。
「なぜもなにも、魚を食らうのに善悪があるか? 虫を殺すのに憐憫が要るか? 人も人を排除し、食らわねば生きていけぬ。恨むならば弱い自分たちを恨むがいい」
その言葉自体には一理あるとゾンは思う。人が生きていくには、誰かを守るには強さが必要だ。ただ、ゾンは食らわれる側になる気はない。
イッセイには受容しがたい考えだった。オガツジの言うことは動かしようのない事実の一面だと知ってはいる。だからこそ、強い者ほど理想を抱き自らを律して生きていくべきなのではないか。
だが考え方がまったく異なると相手と知って、逆にイッセイは理性が戻ってくるのを感じた。同じ感性を持つ相手であれば何度も問いただしたくなるかもしれないが、これは言わば獣と人とで会話しているようなものだ。
落ち着いてくるとともに急激に後悔の念に駆られた。いまだ怒りは燃えているが、感情に惑わされず戦力差に危機を覚える程度にはイッセイも場数を踏んでいた。なんであっても命あっての物種だし、なによりゾンを自分の問題に巻き込みたくはなかった。
追放されていた頃は、人足寄場でもその後で世話になった場所でも荒くれ者に揉まれて過ごしたイッセイだ。体も大きく喧嘩も弱くなかった。本気の殺し合いに近い諍いに巻き込まれたこともあったので、自身を守る術も自然に心得ていた。
だが、今回対する相手は喧嘩と殺しのプロだ。怒気が高じて殺意となるのと、殺しを技術として扱っているのとではまるで違う。
オガツジは戦わないとしても、イッセイも似たようなものだ。そう考えると分が悪い。
おそらくイッセイへの挑発が失敗したのを見て相手は実力行使に出ることにしたようで、細身のヒューランとともに後ろに立っていたふたりが頭巾を外した。ふわりと場違いに思える花の芳香が漂う。力を増幅するためのプルトー香だろうが、彼らもまた薬物で縛られているのかもしれなかった。
ふたりはアウラ・ゼラの男で、見るからに剣呑な空気をまとっていた。ゾンはそのふたりに見覚えがあった。いや、決して忘れてはいけない顔だ。
それは逃してしまっていた最後の仇であった。
「……そうか、ここに居たか」
その顔を見た瞬間、ゾンを取り巻いていた迷いの霧がかき消えた。心にわきあがったのは、憤怒と憎悪の炎。彼らはあの日ゾンのすべてを無残に切り裂き焼き払った、許されぬ存在であった。
「ああ、神は我を導きたもうた」
おそらく自分たちを付け狙う影から逃れるためにアジムステップからクガネに出て、保護を求めたのか戦闘力を売りにしたのか犯罪組織の一味となったのであろう。なかなかに隙を見せぬその消息を追う途中でゾンの復讐心は枯れたかのように思えたが、まさかここで仇に見えようとは。
久々に全身を包む沸き立つような殺意に、ゾンは喜びすら感じた。
「ゾン、この人数でいけるか!?」
「わからん。だがこのふたりは殺す」
手短だが、ゾンの言葉は深い闇のような暗さと強さを含んでいた。久々に昏い空気をまとったゾンを見て、イッセイはじわりと不安な気持ちが胸をよぎった。どこか、何を犠牲にしてもいいというような、そんな向こう見ずな気配を感じる。
とはいえイッセイにはそれ以上ゾンの様子を見ている余裕はなかった。細身の男がふたりに向かって距離を詰めてきたからだ。
イッセイはその敵とまともに相対するのは自分には無理だとすぐに判断した。
その分、なるべく敵の注意を引きつけつつ時間を稼ぐ。できるだけ距離を保ち、避けることに意識を持っていけば多少は保たせられるだろうと思った。戦うのを見たことはないが一対一で負けるゾンではなさそうであるから、少しでも同時に相手する数を減らし、その間にゾンが思うように動ければ自分の居る意味も少しはあるだろう、と。
―― 少なくとも、足手まといはごめんだ。
そして杖を構える。彼らの武器に対してどこまで耐えられるかはわからないが、あのルガディンの白魔道士から贈られたそれは、固い木に何重にも薬液を塗りつけ呪いを施し、そこらの金属には負けない硬度を持っていた。
「棒切れで身を守るか、他愛ないな!」
舌なめずりしそうな声で威嚇されるが、それも相手の作戦のうちだとイッセイは見抜いた。必要以上に怯えても生存率は上がりはしないだろう。
幸いここには十分な広さがあった。二歩、三歩、下がっては避け、間合いに入らせない。手練れではあるようだが、油断しているのか考えが外に出やすいタイプなのか、その動きは読みやすかった。
相手は与しやすしと見た一般人が思いのほか捕まえられず苛立ちを覚えたようだが、戦いが長引くにつれて本気を出す必要を感じたのか、その動きが鋭くなってきた。
元よりイッセイにも特に作戦があるわけでもなかったから、広さを利用した逃げも次第に場所を失ってくる。そしてゾン達とは距離を離そうとしていたはずなのにいつの間にか再び近づいてしまっていたようで、激しい剣戟と男が苦悶に呻く声が聞こえた。
まさかゾンが負傷したのかと思わずそちらに顔を向けてしまい、敵はその隙を逃さず武器をイッセイに振り下ろした。
「くっ……」
イッセイが斬られる、と思ったそのとき。
何か見えざる力が体を勝手に動かした、とゾンは思った。死なせてはいけない、少なくとも生きたいと思う人間が生きるべきだと言う思いが、天啓のように沸き起こった。
跳ぶように一気に間合いを詰め、敵とイッセイの間に短刀を構えたまま突っ込んで膂力の限りで刀を跳ね返し、刃を逸らせた。そこから絶妙に力を抜いて刀を滑らせ、刺すように相手の心臓を突き肺を破る。急所を貫く手ごたえがあった。相手の目が何が起こったかわからないというように見開かれ、そのまま血の泡を吹いて崩れ落ちる。
だが次の瞬間ゾンの背中に違和感が生じ、さらに次の瞬間背中が凍るような刺激が広がった。別の敵に背後から斬られたのだ、とゾンは理解した。先ほど手傷を負わせた敵だが、背中を見せてしまった。
「ゾン!!」
イッセイが自分を呼ぶ声が聞こえた。どうやらあの男はまだ無事らしい、結構なことだ。
氷の冷たさが抜けると焼けるような痛み、背中から血が溢れて抜けていく感覚を他人事のように認識しながら、ゾンは勢いを保ったまま返す刀で自分を斬った相手の脇腹を突き、渾身の力を込めて内でひねりながら切り裂いた。血を吹くような絶叫があがり、敵が倒れる。
敵を討ったと思った瞬間が最大の隙か、と先ほどの自分の動きを思い出しながらこの期に及んでも戦いに学ぶ。
もうひとり、と体を翻し、息を整えながら間合いを計っていた相手と目を合わせた。三つの傷が走った黒い角。こいつが最後のひとりだ……と思うと高揚するとともに不思議なくらいに心が落ち着き、世界がゆっくりと動いているように見えた。傷は痛み体は重いが、長年鍛え上げた体はそれでもまだ思い通りに動いてくれるようだ。体を沈ませるように相手の振るった刃をかわし抱きしめるかのように至近距離へ移動すると、その喉元に血濡れた短刀をたたき付け力の限りで切り裂いた。命を刈り取る確かな感触があった。
これで全部、と思ったと同時に、急速に視界が床に近くなり固定されて動かなくなった。
自分が倒れたのだということもゾンにはわからなかったが、ついに成し遂げたという晴れやかな気分だった。
―― 父さん、母さん、姉さん……小さなオドゥ……
気づくと辺りはとても静かだった。ゾンは見慣れた草原で座っていて、大好きな家族がゾンを囲み優しいまなざしで見ている。まるで昼寝から覚めたような気分であったが、なんとなく、自分は死ぬのだという自覚もあった。
―― 俺、頑張ったかな。生きていた意味は、あったかな……ちゃんと、家を守れたかな……
胸の内で問うと、父が大きな手で角をなでてくれた。ゾンはすべての戒めから解き放たれて子どものように嬉しそうに目を閉じる。母も姉も労うように優しく笑っていた。初めての狩りから無事帰ってきた日のように。
それからその場に弟がいないのに気づいた。そうだ、ナルはここにはいない。自分を迎えには来ていないのだ。それが少し寂しく、同時に心底嬉しくもあった。
少しずつ空や大地が白み風景が薄れていく。もうそろそろ、最期なのかもしれない。痛みも怖れもそこにはなく、人間の最期というのは随分とあっけなく静かなものなのだと思った。もし家族の最期もそうであったのなら、と思うと少しだけ救われる気がした。
―― ナル……俺が死んだら、悲しんで、くれるか……いや、かなしま、ないで……
「兄ちゃん」
ふと見ると、今度は弟がゾンの顔を覗き込んで名を呼んでいた。今にも泣きそうな曇った顔をしている。また俺は最後にお前にそんな顔をさせてしまうのだろうか、と思うとゾンの心はずきんと痛んだ。我が太陽、お前には笑っていて欲しいのに。
「兄ちゃん、死んじゃ嫌だ」
その瞳に大粒の涙が溢れるのが見えた。ああ、ナル……泣くな。ケレルの戦士は泣いてはいけない。俺は、お前が笑っているのを見ていたいんだ。
……もう一度、お前に会いたい。お前の幸せを、見届けたい。
そうだ、俺は……俺はまだ、まだ……
「ゾン……ゾン!!!」
大声で名前を呼ばれ、突然すべての感覚が戻った。風がさわさわと遠くで竹を揺らし、波が石垣を叩く音がする。湿った空気はつんとする潮の香りを含み、ここがあの草原でないことを全身の感覚を通してゾンに伝える。
そして覗き込んでいるのも弟ではなかった。太陽はどこにもなく、そこにあるのは大海原の髪と瞳。ああ、あの男か、とゾンは思った。なぜか悪い気はしなかった。
「よかった、意識が戻ったか……」
イッセイの声は恐怖か喜びかはわからないがひどく震えていた。それが何だか妙に照れくさく感じて、ゾンは目をそらした。背中はまだじんじんと痛み、どうなっているのかはよくわからなかったが傷は塞がっているようだった。
「死んだかと思ったぞ」
「気持ちよく寝ていたのに、起きて最初に見るのがお前の顔とはな」
重い体を引きずるようにして起き上がると、目の中で暗闇と光が混ざり合うようなめまいがして背中にひきつれるような痛みが走った。
「そんな口を利く元気はあるようで安心した。だがまだおとなしくしていろ。俺の回復魔法は拙いんだ」
呻いて額を押さえたゾンを見て、イッセイは優しくその肩を叩いた。
ソルクトータが言ったように回復魔法というものはあくまでも世界と個人のエーテルの橋渡しであり、死の淵から蘇ったのは何よりもゾン自身の強さがあったからだ。だが少しでもその支えになれたことが、自分の目の前で失われていく命を掬いあげることができたことが嬉しく、誇らしかった。
「あいつはどうなった」
ゾンの問いにイッセイは残念そうに、だが少しだけ安堵したように答える。
「すまない。オガツジは逃がしてしまった」
「なんだ、やつはお前の仇だろう。まあ、また追う楽しみがあるとでも思え」
なにひとつ楽しくもなさそうに言いながら呼吸を整えると、ゾンは不思議な気分で空を見上げた。流れるような雲の向こう、アジムの平原のようにまっ平に広がる海原から陽が昇り始めていた。
あの日からずっと、ただゾンを引っ張ってきた一念は今度こそきれいになくなってしまった。目的を果たした憤怒の炎は立ち消え、その後には何も残っていなくてぽかんと胸に穴が開いたような気分なのも確かだ。次に何をしたらいいのかも、したいことも何も浮かんで来ない。
それでも、まだ見たい明日がある。自分自身が望んだ、結末を見たい未来がある。決して相手のためにすべてを捧げて生きるのではなく、自分が生きて、したいことがある。すべての仇を討ったら死ぬつもりだったのは本心であり、今更死を恐れるゾンではないが、もはやその想いはゾンの内にはなかった。
「そうか。これが、生きたいということか……」
ゾンの独り言のような呟きに、イッセイはそちらをちらりと見た。
死にかけて感じることがあったのか、仇を討ってその重さから解放されたからか、そのいずれもなのかはわからなかった。
「案外、気楽なものだろう。生きるということは」
「……先日まで死に損ないだったくせに、先輩面をするな」
ゾンはそう言うと、再び目を閉じた。
相変わらず言葉は辛辣であったが、あの周囲すべてを斬ってしまうような剣呑な空気はもう感じられない。イッセイはそう思った。
その後自分で歩ける歩けないと押し問答しつつもイッセイに宿へと運ばれたゾンは、部屋に着くや意識を失い、丸二日ほど眠ったあとで状況を知った。
あの場からは逃げおおせたオガツジだが、翌日用水路でもの言わぬ姿で発見されたという。
最近評判の店の番頭が謎の死を遂げたとあってクガネの町民たちはあれやこれやと噂した。赤誠組もようやく動いたが、同時期に港で三人の傭兵の遺体が見つかったため仲間割れを起こした彼らに殺されたのだろう、という見解であった。
サカエヅ家はただ長年尽くしてくれた番頭が凶行に倒れたことを悼み、喪に服していた。それ以上はなにも語ってはいない。もちろんクロガネの店も同様だった。
このクガネの緋蜘蛛を取り仕切っているのはオガツジだと思われたが、それよりも奥深くに上位の者がいたのかもしれない。自刃したとも第三組織から狙われたとも考えられるが、逃げ込んだオガツジの失態からこれまでの悪事が明るみに出るのを恐れて消されたのではないかとゾンは思う。まさに蜘蛛が脚を自切するように、だ。
だが当事者がいなくなったことで、イッセイが報復に合う可能性は減ったと考えられる。
イッセイとしては煮え切らぬ終わりではあったが、オガツジの死を以て無念は晴らせたと己に言い聞かせた。緋蜘蛛という組織全体を憎むこともできるが、そこから先すべてを追い詰める修羅とまではなるつもりはなかった。決して臆病からではないつもりで、イッセイは生き残った分は自分のためによりよく生きようと決めたのだ。
「しかし」
しばし宿に逗留し養生しているゾンの元を訪ねたイッセイは、周囲に人がいないのを確認してからぽそりと呟いた。
「いざ自分のために生きたいと思うと、周囲の気遣いが息苦しくていかん……」
「馬鹿が」
ゾンの言葉に、イッセイは憮然とした表情を返した。
「お前、あまり人のことを馬鹿馬鹿と言うな」
「馬鹿だから馬鹿だと言った。息苦しい場所なら、出ればいい」
その言葉にイッセイは面食らった。そんな単純なことなのに、言われるまではまったく考えもしなかった。もうクガネにイッセイを結びつけるものは何もない。なのに、どうしてここにそれほどまでに縛られていたのだろうかと思わず嘆息する。
このゾンという男、欠陥欠如は山ほどあるが、どうにも敵わないと思った。
「旅というものをしてみたいとは思っていた」
「すればいい」
「だが目的がない。しばらくお前について行ってもいいか」
「……勝手にしろ。言っておくが俺にももう目的はないぞ」
ゾンはイッセイを一瞥しただけで即答した。そしてそれは、ゾン自身でも意外であった。弟以外の誰とも深く関わりたくないと思っていたはずだ。この男にさして好意があるわけではないが、そばにいても居心地は悪くなかった。
「いつかお前の弟に会ってみたいな。似てるのか」
「まったく似ていない」
ゾンはやや大げさに首を振った。弟の眩しいくらいの光は、彼自身の中にはまったくないものだ。
そりゃいい、さぞ可愛いだろうとイッセイはうなずき、それはどういう意味だとゾンは凄んだ。
「なんだお前、俺に可愛いと言われたいのか?」
「は……?」
それから、ふたりは目を合わせると、さもしょうもないという風情で笑い合った。
完