まだ、たったの12だった。
その妹が、傍らで泣いていた。
目を奪われるような大変美しい少女であったが、今は血に濡れ、泣き顔でぐしゃぐしゃになっている。
一星――イッセイは、血塗られた刀を手にして呆然と立ち尽くしていた。足下にはおびただしい血だまり。そこに沈むようにして倒れているのは、紛れもない、ふたりの両親だった。どちらも、信じられないという形相で宙を睨みつけている。
「兄さま、怖い……怖いよ……」
血しぶきを浴びて真っ赤に染まった妹を守るように夢中で抱き締めた。いつも父親の暴力からそうしていたように。母親の暴言からそうしていたように。
逃げなくては、と思った。でも、どこへ? 逃げてどうする? それとも暴漢に襲われたとでも言い訳しようか。いや、そんなもの通る状況じゃない。
考えを巡らせている間に、常ならぬ雰囲気の泣き声を聞きつけた隣人たちだろうか、扉の前で数人の声と足音がしてイッセイは腹をくくるしかないと瞬時に決断した。
天を仰ぎ、大きく息を吐くと、もう一度泣きじゃくる妹をしっかり抱き締める。
「いいか、俺は罪を償ってくる。大丈夫、お前は幸せになるんだぞ……ミナミ」
まだ、たったの12だった。
ゾンの目の前には物言わぬ父の姿があった。
誰より立派であった角は無惨に折られ、辱められるかのように放置されていた。
あのあたたかな家族の憩いの場であったゲルは荒らされ燃やされ、他の同族の姿も見えない。炎は収まり数カ所でくすぶるだけとなっていたが、いやな香りが周囲を包んでいた。
ゾンはたったひとりで、家族の亡骸を見つけ出した。生まれたばかりの小さな妹は半分しか見つからず、兄ちゃん兄ちゃんと慕ってきた弟はその欠片すら見つけ出せなかった。
少年は黙り込んだまま変わり果てた姿の家族を埋葬した。道具もないままナイフと手で硬い土を掘り進めば、指先は擦れ爪がはがれて激痛が体中を巡った。
だがゾンはすべてが麻痺したかのように黙々と作業を続けた。
彼の心にあるのは、ただただ憤怒と憎悪だった。その炎で渇いてしまったか、涙の一筋も零れなかった。
「殺してやる……絶対に同じ目に遭わせてやる……」
暗がりの中、イッセイはふと人の気配を感じて掃除の手を止め顔を上げた。
海原のような青い髪と瞳が門の両隣に掲げられた提灯の揺らめきに応えて、わずかに光を返した。アウラ・レンの特徴である白い角と鱗もまた宵闇の下でぼんやりと浮かび上がる。容貌は穏やかではあるが、よく日焼けした顔に施された文様のような紅い化粧が異様であった。
親殺しの罪で長く追放刑に処されていたイッセイは、二年ほど前に恩赦でようやく街に戻ることを許され、今は追放先で世話になった人のつてで小さな宿で下働きをしていた。
許されたとはいえ外聞もあるということで、もっぱら人がいない深夜や早朝の仕事を任されており、普通の客や町人の目に触れることはほとんどなかった。
だが時々、こうして酔狂な時間にやってくる客がいる。体格もよく、罪人の入れ墨のような化粧のイッセイを見て怯える者もいるが、こんな時間に来る客は大抵そういうことを気にしない所謂『訳あり』の客が多かった。そして、イッセイの勤める宿はそういった客を紹介されて受け入れる場でもあった。
「どうされました、旦那。宿をお探しですか」
なるべく穏やかに声をかけると、相手はイッセイに目を留めたようだった。提灯の薄ぼんやりとした光の中でもわかる、イッセイをさらに上回る大きな体躯と角のシルエット。アウラ族か、と思った。しかも明かりに鈍い光を返す黒い角。どうやらこの辺りでは珍しいゼラのようだった。
「郷屋(さとや)を探している」
ぶっきらぼうな物言いだった。そういう客も、イッセイは慣れている。
「ああ、それでしたらこちらです。随分と遅いお着きでしたね。お疲れでしょう、ご案内いたします」
アウラ・ゼラの男―― ゾンは黙ってうなずいた。
近づくとよりはっきりと容姿が見えた。褐色の肌に立派な黒い角と鱗、短く整えられたくすんだ金髪、わずかな明かりの中でも光る銀の瞳は月光を思わせた。そして顔に×字に大きく施された黒い化粧が目を引く。
ゼラが住まうというアジムステップから出てきたばかりというわけではなさそうだが、かといって世間慣れしているようにも見えなかった。何より気配が尖り過ぎている。今まさに人を殺してきたとでもいうような剣呑な空気をまとっていた。こういう御仁とはあまり親しくしないのが吉だ、とあくまでも丁寧に対応しながらイッセイは思った。
しかし、そのイッセイの思惑は相手から破られた。
翌日、朝食の下準備のため薪を用意していたイッセイの元に近づく影があった。
それが昨晩のアウラ族の男だと気づき、イッセイは何か不穏なものを感じながらも用事を聞くべきかと手を止める。
ゾンはイッセイの近くまで来ると、遠慮のかけらもなく睨みつけるようにその姿を見た。仕方なしに、だが表向きはあくまでも穏やかにイッセイは笑顔を向けた。
「何かご用事でしょうか」
「貴様、親殺しだそうだな」
何の前置きもなく言われた言葉に、一瞬イッセイは息を飲んだ。だが、実際こういったことを言われるのは初めてではない。どこからか噂話を嗅ぎつけて色々と聞きたがる輩は何人かいた。だが大抵は面白半分で、このように酒も入らぬ真顔で言われたことはない。
イッセイは表情を隠すように頭を下げた。
「もう、許された身でございます」
「法のことは知らん。罪の話をしている」
どういう意味だ、と思わず顔を上げる。と、ゾンと目が合った。眼光は鋭く、まるで裁きの場に立つ代官のようだった。
「答えろ。なぜ家族を殺した」
「お客様……どうか、お戯れをおっしゃるのはおやめください」
「そのすかした態度をやめろ。客として聞いてなどいない」
イッセイは息を吐いた。その瞬間、宿の下働きの男は消え、ひとりの罪を犯した男が現れる。イッセイはこれまでとは違うきつい表情で相手を見かえした。
「では客ではないと思おう……なぜ、それを聞く」
「知りたいからだ」
ゾンの答えはあまりにも単純で、一瞬あっけにとられる。だがその何も飾らない単純さゆえに、逆に話を続けるだけの興味がわいた。
「知ってどうする」
「事と次第では、お前を殺す」
これにはイッセイは思わず乾いた笑い声をあげた。悪い冗談としか思えず、笑うしかない。だが、ゾンは大真面目に言葉を続けた。
「俺は家族を殺された。家族は互いに守り合い、支え合うかけがえのないものだ。殺した相手を絶対に許すつもりはない」
淡々と、だがはっきりとそう告げる相手の言葉を受け、イッセイは手元に目線を落とした。
「そうか……君はそういう家に育ったんだな」
よく見ると傷だらけのイッセイの腕には、追放後の罰によるものだけでなく幼い頃についた古傷も多数あった。
「そうだな。行きずりの君になら、話してもいいか」
少しだけ自嘲するようにイッセイは嗤った。なぜそう思ったのかは、後々になってもわからない。ただ、真っ直ぐに射るような目を向けるゾンに、誤魔化したり隠したりする気持ちにならなかったのは確かだった。
「俺の家の話をしよう……」
そう言ってゾンに椅子を勧めると、その傍らの地面に腰を下ろした。
イッセイの母親はシシュウ北部にある国のそれなりに繁盛した商家の四女で、兄姉とは歳離れた末娘であった。
器量が良く甘やかされ奔放に育った少女は、若くしてイッセイを身ごもった。相手もまた豪商の出でそこそこの色男。妾の子ではあったが、その母親が寵愛を受けていた当時は同様に相当甘やかされて育ったのだった。
ふたりは出会ってすぐに熱烈に愛し合った。だがイッセイを身ごもったとき家が難色を示すと、若さの持つ積極性が禍してか、互いの家からかなりの金子を持ち出して駆け落ちしクガネへと流れ着いた。両家は当然激しく怒り、ふたりは家から縁を切られてしまう。
ふたりが持ち出した金は相当なものであったが、裕福な家で甘やかされて育ったふたりは生活のことなど何も知らなかった。待っていても食事は出ないし、風呂も沸かない。人を雇ったが自分たちでは仕事もできない。
三年後には妹も生まれたが、持ち出した金子が尽きて雇い人にも見放されるといよいよ暮らしに困った。
実家へ助けを請いもしたが、その頃には既に代替わりしておりかつての兄弟たちには門前払いされた。
金に困窮するとまず父親の愛情が冷めた。
もともと子どもを愛する気など微塵もなかったし、見目はよいため遊び相手も多く、妻子によって「家」に縛り付けられたと今では疎ましく思っているようだった。家にいるのを嫌い、働くこともせず、そこそこ大きな家を売り払い粗末な長屋に移るとさらに家に寄りつかなくなった。
母親はそれでもまだ夫のことを好いており、別れて実家に帰ることもせず、その気を引くためなら何でもした。そのためには、生まれた我が子はどうにでもあしらわれた。ふたりで遊び歩き子どもにはろくに食事も食べさせないこともあったし、父親の鬱憤晴らしでイッセイが殴られても、止めもせずに一緒に年端も行かぬ息子を罵倒した。
それでもイッセイは我慢できた。母親が時々、彼を頼って泣いたからだ。
「あの人は私を愛してくれない、イッセイは母さまを愛してくれるよね。守ってくれるよね」
その言葉にイッセイは縋った。母は本当は自分を愛しているのだと、ただそれをあの父の前でうまく出せないだけなのだと、子の親を想う純粋さで信じた。父から母を守らねば、と思っていた。
それと同時に、兄さま兄さまと慕ってくる愛らしい妹も守らねばとイッセイは思った。父が妹に暴力を振るおうとすればその身を差し出し、母が暴言を吐けば必死で庇った。母もまたそうしながら苦しんでいるのだと思っていた。
だが日に日に親の非道はエスカレートし、ある日遠方への用事を言いつけられたイッセイがようやく家に戻ってくると、10歳を過ぎたばかりの妹が泣いていた。父親は姿が見えず、母親は蒼白な顔をしたまま、娘を見ることもせず台所へ立っていた。
もともと敏く、子どもながらに様々な仕事をさせられていたイッセイにはその状況を見ただけで何があったのかわかってしまった。
近所でも評判の美少女ではあったが、まだまだ幼い妹への無体な行いに、初めてイッセイの胸に両親に対するどす黒い感情が胸にわいた。
その名を、殺意という。
それでもイッセイは辛抱強かった。母もまた被害者であると思い、守りたい気持ちも残っていたため、なるべく穏便にこの状況を脱したいと思っていた。
この頃になるとイッセイは縁者の店で小間使いとして働いていた。その稼ぎのほとんどを親に奪われていたが、雇い主には独立資金を貯めたいと相談して親の目をごまかし、わずかではあるが金を貯めていた。目標額に達したら、妹とともに家を出るつもりであった。
「もうすぐ、もうすぐ俺が何とかしてやるから。あとちょっとだけ、待ってくれ。ミナミ」
涙も枯れ果て、ただ与えられる暴力に怯える妹を抱き締め、何度もイッセイはそう言ってなだめた。少しずつ憔悴していく妹を見て、目標まで到達せずとも次にきっかけがあればすぐさま飛び出ようとも思い始めていた。
そんな矢先のことだった。
その日は夕刻まで仕事のはずであったが、たまたま雇い主の事情で早く帰された。まだ日の高いうちに帰った家族が住む古い長屋の一角は、みな勤めに出ているのかがらんとして静かだ。
だが何とも言えぬ不穏な気配を感じた。近づけば少女の泣き声が聞こえる。遠いとはいえ号泣、とも言える異様な鳴き声だと気づいた瞬間、ばくばくと心臓が鳴った。
イッセイは急く心で足がもつれそうになりながらも家へと駆け込んだ。
家の中は凄惨な有様だった。
入った瞬間に鼻を突く鉄の香り。一面に血しぶきが飛び床は赤黒く染まり、そこらじゅうの物が倒れていた。部屋の端には両親が倒れ、妹は泣きながら……泣きながら、手にした刀を両手で振り下ろし何度も何度も”それ”を突いていた。生きているのか死んでいるのかわからなかったが、突くたびに痙攣するように両親の体が跳ねた。
「み、ミナミ!」
しばらく動くことも言葉を発することもできずにその様子を見ていたイッセイだが、ようやく振り絞るように妹の名を呼ぶと、とにかく扉を閉め妹のもとへ駆け寄ってその華奢な体を抱き締めた。妹が自分に害を成すとはまったく思わなかったし、その思いは正しかった。抱きしめた妹からはほのかに花のようなよい香りがしたが、血の臭気ですぐに薄れた。
「ミナミ、ミナミ……やめろ、やめるんだ……!」
震えながらもぎっちりと握りしめたその指を一本一本剥がすようにして刀を奪い、呆然としてイッセイは立ち尽くした。妹を抱き締めた体は同様に血でべっとりと濡れた。だがもう麻痺してしまってなんの恐れも、匂いも感じない。
妹は泣きじゃくっていた。衣服は乱れ、可愛らしい顔には殴られた痕。一体どんな思いで、そのか細い腕にどれだけの力を込めて、少女は親を斬ったのであろう。何度も何度も、これほどまでに憎しみを込めて突いたのであろう。
そう思うと自分の不甲斐なさに怒りがわいた。妹が殺す前に自分が殺せばよかったのだ。こんなにぎりぎりまで、追い詰めてしまったのは自分だと思った。
そして逃げなくては、と思った。でも、どこへ? 逃げてどうする? それとも暴漢に襲われたとでも言い訳しようか。いや、そんなもの通る状況じゃない。
考えを巡らせているうちに異変に気付いたのか止まぬ泣き声を聞いて心配して駆け付けたのか、扉の前で数人の声と足音がした。イッセイは天を仰ぎ、大きく息を吐いてもう一度泣きじゃくる妹を抱き締めた。
このか弱そうな少女が殺したというよりも、自分が殺したという方が通りもいいであろう。幸いにも、いつもいないはずの時間に自分がいる、それだけで妙に説得力が増す気がした。
「聞くんだ、ミナミ。お前は何もしていない。父さまや母さまを殺したのは、俺だ。帰ってきたら俺がふたりを刺して、お前は止めた。……わかるな?」
妹は最初はいやいやするように首を振ったが、イッセイが常ならぬ怖い顔でもう一度告げるとこくりとうなずいた。
「いいか、俺は罪を償ってくる。大丈夫、お前は幸せになるんだよ、ミナミ」
刀は潮風亭近くで酔っぱらっていた侍から盗んだと言い張った。そういった訴えは出ていなかったが、刀は侍の魂であり盗まれたとなると恥ともなるため、被害届が出ることは少なくうやむやとなることがほとんどだった。実際、妹がどうやってそれを手に入れたのかはわからなかったが聞き出す機会もなく、またイッセイにはそれ以外の方法が浮かばなかった。親のことも今となっては守るものもないので洗いざらい話した。
代官はそれなりに同情を示したものの、どんな理由があれども、親殺しは大罪である。
普通ならば死罪は免れないところだが、まだ成人前であること、新将軍の即位が近く流血を嫌ったこと、長屋仲間からも虐待についての言質が取れ情状酌量の余地があったこともあり、罪一等減じてクガネからの追放刑となり、受刑者が集められる更生施設へと送られた。
以降長い間、イッセイは過酷な生活を送ることとなる。
妹も犯罪者の縁者として無罪とはいかないはずだったが、その美しさからかとある筋の引き取り手があり、家とは縁がない扱いとなって許された。
更生施設へ送られた後も妹とはふた月に一度ほど手紙のやり取りがあったが、一年目でふつりと切れた。どうなったか心配ではあったが、罪人といつまでも縁があっても相手のためにならないと思い諦めた。もしかしたら何かよい縁談でも決まったのかもしれない。そうなったら家のことも、兄のことも完全に忘れて幸せになって欲しいと、そう心から願っていた。
それから十年近くが経ち再び恩赦で追放刑が解かれ、クガネに戻ることが許されたとき、イッセイは事実を知った。知ってしまった。
妹は自ら死を選んでいた。
残された手紙には、兄が自分の罪をかぶった、と書かれていた。ただ、奉行所は既に刑が定まった庶民の犯罪についての真相など取り合ってはくれなかったため、イッセイの罪を減じることはできなかったという。刑罰を変えることができない以上、逆に彼のことを慮って誰も妹のことも真実のことも、伝えられなかったとも。
イッセイは妹が残したという手紙を読んだ。
最後の、最後の妹の言葉は……。
―― 兄さま、ごめんなさい。許して。許して。許して。許して。
何故だ、と手紙を抱えたままイッセイは崩れ落ちた。お前の幸せだけを願ってこの長い年月の間耐えてきたのに。罪の重さに耐えかねて自ら命を絶ったのだとしたら、イッセイのしてきたことは何だったのだろうか。いっそ肩代わりなどせず、妹自身が罪を償っていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
その日、イッセイの涙は溢れ、枯れた。
「なるほど。貴様が家族を殺したわけではなかったのか」
「いいや、みんな俺が殺した。俺が殺したのだ……」
イッセイは震える両手を見た。両親の非道を耐えるだけ、受け止めるだけで解決しようとしなかった。穏便に済ませようとして極限まで妹を追い詰めた。妹の罪を見て見ぬふりをしてさらに重圧に苦しませた。
何もかも、自分の選択が間違っていたとしか思えなかった。自分さえしっかりしていればあのような悲劇は起こらなかったはずだ、と。
「馬鹿が」
「なんだと……」
吐き捨てるようなゾンの声に、イッセイは顔を上げて睨みつけた。同時に深く後悔する。こんな男に話すのではなかった。他人に何がわかるというのだ。
「馬鹿だから馬鹿だと言ったんだ。貴様、全部背負ったふりをしていい気分になっているだけだろう」
殴られた。と、その瞬間イッセイは感じた。もちろん実際に手を出されたわけではなかったが、ゾンの言葉にはそれだけの重さと鋭さがあった。
「自分にできる最善を尽くしてダメだったのなら、その事実を受け止めろ。それをいつまでも自分のせいだと、さすが白角は女々しいことだ」
「こ……の……っ」
「次は八つ当たりか」
ゾンは言い放った。その目に苛烈な炎が宿る。
「ただただ自分が悪いと泣くだけなら、その場で死ねばいい」
ゾンとて間違った選択をしたことがないわけではなかった。だがあの日からこれまで、文字通り必死で、できることをやり尽くしてきたのだ。もし自分がイッセイの立場なら、とゾンは一瞬思いを巡らせた。眩く笑う弟の顔が浮かんで消える。弟を潰した周囲を殺し、自分も死ぬ。
「貴様、なぜ死なない? なぜ生きている?」
イッセイは言葉を失った。こんな痛烈な言葉を向けられたのは初めてだった。
周囲には真犯人のことが知れ渡っていたため、誰もがイッセイのことを慮って、あるいは犯罪者の家族を刺激すまいとしてか、言葉を濁してきた。話を蒸し返すまいと不自然に明るく振る舞われることも多かった。
絶望して死にたい気持ちになったこともあったのは確かだ。だが、イッセイは今生きているし、明日も明後日もこれまで通り過ごしていくつもりだった。
「なぜ……俺は……」
「フン、軟弱白角め……一生そうやって死に損ないでいるがいい」
言い捨ててゾンはその場を去ったが、それにも気づかずイッセイは呆然と自分の手を見つめたままだった。
ゾンは足早に与えられた部屋へと戻っていた。
心に怒りが満ちている。憎悪というよりは純粋な怒りであった。だがそれが、何に向けられたものなのかがいまいちはっきりしない。最初はあのレンの男に対して怒っているのだと思ったが、何やら違う気がした。
親殺し、という言葉には震えるほどの怒りを感じた。大切なものを自ら破壊したという男をどうしても許せないと思った。だが、相手の話を聞いてみれば、なるほど少なくともあの男の両親はゾンの考え方では『家族』ではなかった。家族でないなら、大切なものを傷つけるなら、それは敵だとゾンは思う。
妹を守れなかった相手の不甲斐なさを、自身に重ねてしまったための怒りかもしれない。
ゾンは、復讐に生きてきた。力を手に入れるために何でもしたし、どんなことにも耐えてきた。たとえつらいと思っても、家族の最期を、あの日の誓いを思えば大したことではなかった。家族の仇を討つまでは、死ぬことなど自身に許すわけにはいかなかった。
ゾンはオサード大陸のアジムステップに住まう、ケレル族の出身である。
勇猛で知られるこの一族は多くが戦士であり、一人前と認められるには体の大きさを超えるほどの虎を倒してその骨で鎧を作り、武勇を示さねばならなかった。
その一族の中でも、彼の父親は一際雄々しかった。他より二回りも大きく見える立派な体躯と威厳に満ちた大きな角、鱗は艶やかで体を鎧うように数多く、その姿から受ける印象のままに勇猛であった。それでいて冷静で、跡継ぎであるゾンにはいつも戦士の心構えを説いてくれた。
母は月のような女性だった。濃い褐色の肌に明るい灰色の髪、瞳は月光のような青みを帯びた銀色で、物静かだが芯が強く、夜空の星が鳴るような綺麗な声で笑った。ゾンはその声を聞くのが大好きで、小さな頃は一生懸命母を笑わせようとしたものだ。怪我や病気をすると母が手を当てながら優しくケレルに伝わるまじないを唱えてくれた。それは回復の魔法ではなかったが、魔法や薬以上に苦痛が和らいだ。
姉は小柄だが明るく元気がよく、とても優しかった。刺繍が得意で、祭りの日にはゾンと弟のために小さなマントに咆哮する猛々しいベルスを縫ってくれた。それがとても誇らしくて、周り中にふたりで自慢して歩いたものだ。
妹は生まれたばかりでそれほど記憶にはないが、少し父の面影があり、マタンガも逃げるのではないかと思うほど元気な声で泣いた。
そして弟のナル。顔立ちも肌や髪の色味も母によく似ていたが、その瞳は太陽の輝きを持つ紅い色をしていた。これは当代の族長補佐も担った偉大な戦士であった祖父と同じ色であるという。人なつこい性格もあり、太陽(アジム)の祝福を受けた子だと周囲に可愛がられたが、誰よりもゾンがこの弟を可愛がった。弟も、もしかすると母よりも兄を慕っていたかもしれない。どこにでもついてきて、一生懸命兄の真似をしようとしていた。よく一緒にいたずらをしては、ゾンだけが怒られたものだった。
ゾンはこの家族が大好きであったし、誇りであった。一日も早く立派な戦士となり、父を支え、大成して家族を幸せにしたいと思っていた。
それは、妙に太陽がひりつく日だった。
ケレル族は家畜ももちろん育てているが、その勇猛さが示すように狩猟もよく行った。
ゾンは10歳を迎えてからは父と一緒に狩りをするようになった。今は12になり、教えがいいのか筋がいいのか、時折大人も顔負けの戦果を挙げていた。通常は15歳で成人の儀を行うが、もっと早くてもいいのではないかと言われていたほどだ。
狩りの間はまだ幼い弟は面倒を姉が見ていたが、ちょうどその頃は他国から来たという角のないひょろっとした男が家に逗留しており、弟はその男に随分なついているようだった。
ゾンはそれが気に入らなかった。客人に失礼のないように、と父からきつく言われていたが、帰ると走り寄ってきてまとわりつく弟が楽しげにその男のことを語るのは正直言って面白くない。
その日も、狩りに出るゾンを見送る弟の手の先にはその「角なし」が居た。なんだか直視する気にならずゾンは弟からぷいと目をそらす。笑顔だった弟の表情が泣き出しそうに曇るのがちらりと見えて、胸が小さく痛んだ。
「ちょっと待って」
姉が近づき、ゾンの首に小さな刺繍の首飾りをかけた。小さいながらも太陽と青空と生い茂る緑を縫い込んだ、それは「夏(ゾン)」を意匠としたものだった。
「はい、お守り。ゾンはもうほとんど大人ね。……私もそろそろお嫁に行く準備をしなくちゃね」
そうして姉は少し照れくさそうに微笑んだ。今にして思えば、あのとき姉には既に意中の相手がいたのではないだろうか。そう思うと、胸の奥がまたひりひりと痛んだ。
「では、行ってくる」
「あなた、お気を付けて」
いつも通りの簡単な挨拶を交わして、ゾンと父は家族と居住地を後にした。この後に訪れる悲劇のことなど知るよしもなく。いつも通りの日が始まり、終わるはずだった。
異変にいち早く気づいたのは、父だった。遠方から居住地の空を見て、眉根に皺を寄せる。立ち上る煙が、食事の準備とは思えないほどに多い。馬を巡らせて移動し、風下へと向かうとおかしな臭いが漂い、より異常がはっきりとした。
途端に父親の表情が見たこともないほどに険しくなった。それを見たゾンの全身にも、何か不味いことが起こっているという緊張が走る。
「父さ……」
「ゾン、今から父が言うことをしっかりと聞け」
父は低く、唸るような響きを持つ声で、だが静かに話しかけた。
「私は今から家に戻る。お前はあの谷の岩陰に身を潜め、母さんたちが来るのを待て。何があろうと、決して明日の朝まで動いてはならん」
「父さん、俺も一緒に……」
「ならん」
父の声はこれ以上ないほどに厳しく、ゾンは言葉を飲み込んだ。
「いいか。母さんたちのこと、家のこと、頼んだぞ。お前が頼りなのだ、我が息子」
そう言って父はゾンの角を一度、大きな手でなでた。そして馬首を翻すと、風のように走っていく。その背中を追いかけたい衝動に必死で耐え、ゾンは言われた通り谷近くの巨岩の影へと向かった。きっとすぐに、笑いながら家族がやってくると信じて。
手が痛くなるほどに、姉がくれたばかりのお守りを握りこんだ。
心臓が早鐘のように鳴り続け、周囲の音が遠く感じ、数分なのか何日も経ったのかもわからなくなりそうだった。ただ風が冷たくなったことで日没に気づき、荷物からマントを取り出してくるまった。
月が中天に上り、まぶしいほどの星空が広がり、いつしか空が白んでいく。
その間、岩陰に訪れる者は誰も居なかった。
やがて日が昇り、辺りが光に包まれて、あまりにも穏やかな朝がやってくる。
一睡もできないままゾンはそこに居た。
朝までは動くなと言われた。つまり、もう動いてもいいということだ。
まだ子どもではあったが、ゾンはすでに戦士の風格があった。はやる心を押さえつけ、家族や一族の姿はないか、怪しい影はないかと慎重に周囲を見渡しながら馬を走らせた。
そして、自分たちの居住地の変わり果てた姿を見た。
いや、居住地だけではなかった。
「……っ、とう、さん……」
家を守るかのようにして倒れている父の亡骸を前に、ゾンは呆然と立ち尽くした。多勢に無勢だったのか無数の傷があり、立派な角は無惨に折られていた。
目の前には黒く焼け焦げた天幕の残骸が広がり、家畜はすべて居なくなっていた。
ゾンたちは部族の中でも数家族毎に固まって居住地を成していたが、一緒に暮らしていた他の同族の姿も見えなかった。
半ば麻痺した心で焼け跡を見て回れば、いくつもの遺体を発見した。父のように戻った戦士と思しき姿もあれば、久々に家事道具ではなく武器を取り応戦したと見えた女性や子どもの姿もあった。
仲間が回収したのか姿こそないが、おそらく敵の持ち物と思われる防具の破片も見つけた。その意匠が残った品を、爪が食い込むほどにきつく握りしめていた手を無理矢理開いては掴んで、鞄に入れる。絶対に相手の正体を突き止めてやろうと思った。
焼け焦げた母と姉も見つけた。姉にかばうように抱かれた、おそらく妹だったものも。見つけた瞬間肺を握りつぶされたように息が止まったが、声も、涙も出なかった。
弟の亡骸らしきものは見つけられなかった。見つけられないほどに損傷したのか、拉致されたか、遠くで殺されたかもしれなかった。最後に見た弟はあの泣き出しそうな曇った顔で、どうしてあのとき笑顔を返してやらなかったのだろうとぼんやりと思った。
やがてゾンは、道具もないまま小さなナイフと手で硬い土を掘り始めた。爪がはがれて激痛が体中を巡ったが、手は止めなかった。その痛みが、動け、生きろ、と怒声を浴びせてくるように感じた。
「……てやる……」
父と別れてから、ゾンは初めて言葉を発した。
それは低く、低く、もう少年とは言えないような響きを持って。
「殺してやる……絶対に同じ目に遭わせてやる……」
それが、父に『この家』を託された自分のやるべきことだと、ゾンは思った。
ゾンはまず他のケレル族と合流した。
幸いゾンの父に世話になったという人物がいて、よくぞ生き残ったと大いに喜んで家族のように迎え入れてくれたが、そこに馴染むことはできなかった。
おおらかで明るく、温和とも言えたゾンの性格は一晩で一変してしまい、すべてに敵意をむき出しにするように獰猛で、攻撃的になっていた。
なぜ同胞にあんなことが起こって安穏と生きていられるのかと、どうしても問うてしまう。一族をあげて敵を見つけ殲滅すべきではないかとゾンは思っていた。
それを訴え出ると、族長は必ず恨みは晴らそうと約束してくれたが、今は時期尚早だとも言った。
ゾンの持ち帰った意匠から、おそらく相手は草原でも有数の大部族の過激派であると思われた。抗争を繰り返す彼らは、ときとして他の部族を犠牲にして戦力を増やそうとするのだ。下手に手を出して部族同士の激突となれば、ケレル族がいかに勇猛であっても数で圧倒されてしまう。族長としてはゾンの気持ちは痛いほどわかるつもりではあったが、むざむざと一族全体を危険に晒すこともできなかった。
だがゾンは早く家族の、仲間の敵を討たねばと焦っていた。結果、翌年にはいち早く成人の儀を終わらせ、一族の元から飛び出した。部族同士の問題になるのが困るというのであれば、ひとりでも仇を討とうと思っていた。
とはいえ、さすがにひとりでは正面切っての戦いは無謀である。
そもそも仇の正体も部族以外には掴めていなかった。
そこでヤンサに渡り、用心棒のようなことをしながら忍びの技……特に情報収集や暗殺術を学んだ。それとともに辛抱強く機会を待つことも覚えた。
長く修行と放浪を続け力を付けながら、復讐心は少しも衰えることはなかった。そのためにゾンは生きていた。
十年近い歳月を経てアジムステップへと戻ると、じっくりと時間をかけ、ひとりまたひとりと当時自分たちを襲った相手を突き止めて討ち始めた。
人を殺すことに躊躇はなかった。当然の報いだと思っていたし、気を緩めれば自分が同じ立場になることをよく知っていた。要するに、このとき既にゾンは命を奪う者の『覚悟』ができていた。
そしてあと残すところふたりとなったところで、その男たちは命を狙われていると気づいたのか、忽然とアジムステップから姿を消してしまった。
その消息を探っていたゾンはある情報を聞きつけ、あの日以来初めて復讐以外のことに意識を奪われた。
弟のナルが、生きているかもしれない。
あの日弟のそばに居た角なし学者のことなどすっかり忘れており、どこかでのたれ死んだとばかり思っていた。だが再会の市で仇の情報を集めるうちに、その姿を見たという話が耳に入ったのだ。曰く、小さな、紅い目のアウラ族の少年を連れて。
再会の市は多様な部族が集まっており中には異種族も混ざっていたが、やはり彼らは目立つ。特にエレゼン族は隣接するドマにも東方の国にもほとんどいないため人目を引いたし、その男が妙にアウラ族のしきたりに詳しいので驚いた、ということで長く記憶に残っていたのだ。聞き出したところ、ケレルの使いだと言っていくつかの物資を買い求めるとそそくさと東の方へ向かって市を出て行ったという。
「あの男、ナルを拐かしたのか」
最初に感じたのは学者への激しい怒りだった。大事なものを奪われた、と思った。見つけ出して殺さねばとも思った。
次に弟に思いを巡らせた。生まれ故郷を離れてつらい思いをしていないだろうか。今も生きているのか、元気なのか。
その姿を思い描くと心の奥底に灯がともった。それはいつもの復讐や憤怒の炎とはまったく違うじんわりとあたたかなもので、ゾンは戸惑った。
復讐心が揺らいでしまう気がして、弟のことはなるべく考えないようにした。自分があたたかい気持ちで満たされるなど、許されない事のような気がしたのだ。もとより、すべての仇を討ったら自らも命を絶つつもりであった。
「とにかく、あのエレゼンを探さねば」
戸惑う心を抑え、ゾンは学者の足取りを追った。
エオルゼアに向かおうと思ったが、陸路は帝国の支配下にあった。無謀なところがあるゾンではあるが、帝国領土内を市民権を持たない者が無事に通過するのはさすがにリスクが高いと考えた。
あとは海路だ。海路で向かうには一度東に向かい、クガネに出なければならない。ドマは先だって独立に成功したがまだまだその領土は荒れた状態であり、また隣接する紅玉海からクガネに行くには海賊衆の手を借りる必要がある。
ゾンは再び傭兵となり、商人の護衛としてドマと紅玉海を通過しクガネへとたどり着いた。つてを辿って郷屋という小さな宿で、リムサ・ロミンサへと船を出している商人とも海賊ともつかない自称『画商』に紹介を受ける手はずとなっていた。
そしてそこで出会ったのが、イッセイであった。