遠くに灯りが見えた。
いくつもの小さな炎が揺れて煙がたなびいている。
きっとお祭りの準備だと思った。きっとあの光の下にはたくさんのごちそうが並んで、音楽が絶えず、みんなが踊っては笑い、兄ちゃんが小さな贈り物をくれる。
はやく行かなきゃ、と駆け出そうとしたその時不意に抱きすくめられ口を押さえられた。
「静かに」
見上げればいつもは優しい「角なしおじさん」が見たこともない怖い顔をしていた。
――毎日笑いながらたくさんのお話をしてくれたのに、今日はどうしてこんな怖い顔をするの。
何かイヤなことが起こるのだと直感的に思い、もがいて兄を呼ぼうとしたが体が鉛のように重く声も出ない。
気がつくといびつな黒いオブジェに囲まれていた。姉が料理を失敗したときのような鼻がつんと痛くなる匂いと、なんだか胸が悪くなるような知らない匂いでいっぱいになる。
清浄な空気を求めて顔を上げれば、また恐い声とともに押さえつけられた。
「見るな」
そう言われて逆にその指の間から外を覗くと、足下の小さな手のような黒いものが目に入った。そしてバラバラになったきれいな石。
――あれは母さんの首飾りだ、とすぐにわかった。僕が壊しちゃったんだろうか。そしたら母さんはきっとものすごく怒るだろうな。でもきっと兄ちゃんが一緒に謝ってくれるね。そうだ、兄ちゃんはどこだろう。怖いよ、寂しいよ。兄ちゃん、兄ちゃん…。
相変わらず喉が詰まったように声が出ない。
それでも、何度も何度も、兄を呼んだ。
と、軽く揺り起こされて瞬きすると、目の前には見慣れたエレゼン族の青年の顔があった。薄明かりの中で白金の髪がやわらかな光を返し、薄荷色の双眸が心配そうにこちらを見つめている。
「……フィー…カ?」
フィーカと呼ばれた青年の唇が動いて、かすれた声が耳朶をたたいた。いや、声というより空気がこすれるような音と言った方が正しいかもしれない。見ればフィーカの喉には遠目からもはっきりとわかるような切り裂かれた傷痕があった。
そう、彼は話すことができないのだ。
それでも、フィーカが「大丈夫ですか?」と問うたのがシーアにはわかった。
全身にかいた汗が急速に冷えていく感覚があった。しかしどんな夢を見ていたのか思い出そうとしても、頭に黒いもやがかかってしまったように何も出てこない。ただ、懐かしい夢を見たのだということだけが薄ぼんやりと理解できた。
「多分、家族を失くしたときの夢を」
納得したようにフィーカは小さくうなずいた。
お互いあまり過去のことは知らなかったが、シーアが子どもの頃に本当の家族が亡くなりエオルゼアに渡ってきたという話は少しだけしたことがあった。
フィーカはなだめるようにそっとシーアの角に触れた。
その感触に妙に安心してシーアは目を閉じ、体を起こすと相手に軽く寄りかかる。
「すみません、起こしてしまいましたか……いや、起きてたんですね。寝起きのフィカさんじゃない」
フィーカは基本的に穏やかな青年だが起きたあとは数十分に渡りはっきりと不機嫌になるところがあり、お世辞にも寝起きがいいとは言えない。少々むっとしたように、あるいは図星のように一瞬口を尖らせてから、フィーカは手元にあったえんじ色の皮表紙の本を軽く持ち上げてみせた。
「ああ、本を読んでらしたのか……眠れなかったのですね」
その表紙に描かれた『オサード大陸の歴史と文化』という文字が目に入ってきて、シーアは遠くへ思いを馳せるように目を閉じた。
「少し俺の昔話を聞いてくれませんか。とは言っても、アジムステップにいた頃のことはほとんど覚えていないんですが……」
フィーカは軽く目を見張ってから、ゆっくりうなずいた。
シーアはオサード大陸のアジムステップの生まれである。
アウラ・ゼラの多様な部族に支配されたこの地域は周辺各国とはまとまった交友がなかったが、それでも排他的な部族を除いては外国に興味を持つ、あるいは興味を持った外国人に対して開けた態度を見せている者は見られる。
シーアが生まれたケレル族は勇猛な戦士を多数輩出することで知られており、戦う技は時として伝統よりも重視された。そのため修行と称し傭兵として他国へと赴く者もあり、そこから逆にケレル族へと興味を持つ者もまたあった。
その学者もそうしたひとりであった。アウラ・ゼラという種族に深く興味を持ち、研究をしているという長身痩躯のエレゼンの男、キース・クランはシーアの家の客人として滞在していた。
黙っていると何か企んでいると言われるんだよと笑う「角なしおじさん」は、その見た目に反してとても人なつこくて優しく好奇心旺盛で、たくさんの話をシーアにしてくれた。シーアもまたキースによくなつき、家族が忙しくしている間はずっとつきまとっては様々な話を聞いていた。
だが、その日々は突然終わりを告げた。
今ほどオロニル族の支配が強くなかったアジムステップでは、部族の抗争が激化していた。ケレル族は確かに勇猛な戦士ぞろいであったが、そのケレルに勝てば名を知らしめられると考える集団もおり決して安全であるとは言い切れなかった。
その抗争によりシーアは両親と祖母、兄と姉、そして生まれたばかりの妹をすべて失い、キースもまた拠点を失って逃げるようにアジムステップを後にし、エオルゼアへと戻ってきた。小さなシーアの手を引いて。
その時から、シーアはキースの息子となった。
オサードから海を渡って帰り着いたリムサ・ロミンサは常に新しいものの飛び込んでくる拓かれた街で、アウラという種族への偏見も少なくともシーアが知る限りでは少なかった。キースの妻ロザリーは聡明な女性であり、キースと同様に実の息子のようにシーアを大切に育ててくれた。
この街での生活は穏やかそのもので、養父母の実家が裕福であったこともありシーアは何の不自由もなくのびのびと育った。その頃できたばかりの、巴術ギルドが支援する学校にも通わせて貰った。
毎日学校から帰ると焼きたてのお菓子と紅茶が並んでいて、バターの香りに包まれながら「今日はどんなことを学んだの」とロザリーが優しく聞いてくる時間はシーアの宝だった。何でも楽しそうに聞いては「まあすごい」と微笑んで褒めてくれるので、シーアはこの養母の笑顔を見るためにも一生懸命授業を聞いたものだ。
今にして思えば学者を夫に持つ博識な母は既に知っているようなことばかりで、ただ息子の復習の一助となるために聞いてくれたのだと思う。
やがて養父の後を継ぐように学者の道を選んだ。
キースはオサードの文化を研究していたが、シーアはエオルゼアの流民たちの生き方を学び始めた。それとともに流民の一部が流れる冒険者に興味を持ち、いつしか自身も彼らと混ざって旅をするようになっていった。
身を守るため戦う術も身につけた。戦闘技術は非常に覚えがよく体格もよかったため、前に出て戦うのが向いているのではないかとよく言われたものだった。
それを話すと、キースは「やはり血か」と嘆息した。
シーアは自分が生まれ育った一族のことを覚えていなかった。家族を失ったときのことを始め、アジムステップで暮らしていた頃のことは断片的にしか思い出せない。
家族を失くしたということも15になったときにキースから改めて話されるまでほとんど意識していなかった。
エレゼンの夫婦からアウラが生まれるはずはないので本当の家族は別にいるのだろうとはもちろん思っていたが、自分を心から愛してくれる養父母のもとで育ったシーアにとってそれを考えるのは冒涜的ですらあった。
「お前が私たちのことを大切に思ってくれるのは嬉しい。だけど本当のご家族のことも忘れてはいけないよ。それは、かけがえのないものなのだから」
まだ若い息子にとっておきの蒸留酒を勧めながら、キースはそう語った。
「お前のお父さんは雄々しく勇猛だがおおらかだった。お母さんは繊細そうに見えて誰よりも芯が強かった。お前はお兄さんととても仲がよくて、いつも後ろを追いかけていたよ……」
キースが話してくれた家族の記憶がそのままシーアの家族像となったが、どこかピントの合わない写真のようで他人の家族の話のようにしか思えず、想えば想うほどもどかしさだけが募った。
そこまで話したとき、フィーカが問いかけるように小さく袖を引いたので、シーアは少し考えてから小さくうなずいた。
「まだ、思い出せません。大事な人たちだから思い出したいのですが……でも今は、そういう存在があったと、それだけ知っていればいいと思っています」
「……」
ええ、とかすれた声が聞こえた。それから少し苦しげに何事かを話そうとして、途中で諦めたようにシーアの角に触れる。
再び角に優しく触れられてシーアは目を細めた。アウラ族にとって角は特別なものであり、見た目よりも繊細なものでもある。触れられて心地よく感じるのは、心を許した相手にだけだった。
きっとフィーカなら「僕もお手伝いします」か「きっと思い出せますよ」と言おうとしたのであろうと思った。
今は隣にそれよりも大切な……新しい家族ともいえる存在があるのだとシーアは思ったが、その言葉の代わりに微笑みを返したのだった。
夕暮れ前のリムサ・ロミンサ、国際街商通りは人であふれていた。
今日中に商品を売りさばいてしまいたい商人たちは声を張り上げ、それをもっと安く買いたたこうと客が応える。他地域からの船も着いたのか国籍もわからぬ集団がうろついて、イエロージャケットがそれに目を光らせている。時々怒声が響いては続いてそれをいなす声が響き、さざ波のような人々の話し声にまた飲まれていく。
シーアとフィーカは、たまにはゆっくりしようとレストラン・ビスマルクを予約し、それまでの時間つぶしにと通りを歩いていた。
「今日は一際賑やかですね。早めに予約していてよかったです」
言いながら雑貨屋の前で足を止め、立ち並ぶ色鮮やかな染料を眺める。
ふと隣を見やると、シーアに勝るとも劣らない体格の持ち主が同じように染料を物色しているようだった。薄い金色の髪の下で黒々と光る角に目が行き、なんとはなしに「同族か」と思う。今でこそちらほら姿を見るアウラ族だが、やはり珍しくはあった。
「旦那がた、アウラさんね。実は今日は遠くオサードはアジムステップからの品が入ってるんですよ!おっとおふたりには遠くはないかな」
二人の大男が見ているものに気づき、ルガディン女性の店主は熱心に営業の言葉を並べる。
「こちらの旦那は戦化粧でしょう? いやかっこいいねェ、そうそうこちらは化粧にも使える染料でね。アウラさんの中でも勇猛な戦士の一団、ケレル族の祭りで実際に使われているというお品ですよ!」
ケレル、という言葉を聞いてシーアは店の主人に顔を向けた。
子どもの時のことは覚えていないが先だってとある組織に属する友人とともにドマ解放のために走り回っていた折、ほんの少しだがケレル族にも接触する機会があった。そして彼らと触れ合ってからというもの、戦士の血が滾りシーアもまた書を置き今では斧を持つようになっていた。
「へえ……俺、そこの出なんですよ。ちっちゃい頃にこっちに来たんで覚えてないけど。戦化粧って効果あるのかな、興味あるな」
隣の男もまた顔を上げた。ちらりとこちらを見た顔にはX字を描くように大胆に黒い化粧が施され、その下から覗く瞳は明るい色だが剣呑な光を帯びて、勇猛さというより畏怖を感じる容貌であった。その男が唸るように小さく呟いたのが聞こえた。
「ケレル……」
「あ、すみません。効果あるのかななんて言って……」
シーアが少々ばつが悪く感じながらそう言うと、一瞬男と目が合った。先ほどまで険しい光を帯びていた瞳は少し警戒を解いたのだろうか、こうして受け止めると存外優しいと思いながらシーアは小さく会釈する。
「っと、今日は予定があるんだった……また来ます!」
「はいよ、ぜひ次はお買い上げを!」
予約の時間を唐突に思い出しそう声をあげたシーアの急な切り上げにも店主は嫌な顔をせず、豪快な声をあげた。
会釈にも応えずにいたアウラの男は何やら考え込んでいたようだが、シーアが店に背を向けると同時に、押しつぶされるような低い声で何かを呟いた。
「……か……?」
なんとはなしに気になったが、その言葉は聞き取れなかったのでシーアはそのまま店を後にした。
「なんか、訳ありそうな人でしたね……そういう方はたくさんいますが」
シーアのその言葉に、フィーカはこくりとうなずいた。
シーアが他愛のない話をし、フィーカはそれにうなずいたり首を振ったり時に肩を震わせて笑ったりする。そうして『会話』しながらふたりはビスマルクへと足を向かっていた。
こういうときはエーテライトを使わずに、ゆっくりと街を散歩しながら向かうのが常だ。
少しずつ闇が混ざり始めた街に街灯の光がぼんやりと投げかけられていた。巨体のグレッヘファルに挨拶をしてエレベーターで上層へ昇り、まだ人影の少ない溺れた海豚亭を突っ切りながら亭主のバデロンに遠目で手を振る。酒場を出て少し歩いた辺りで、後ろで物音がした。
ナル、という男の声…いや、叫び声が聞こえた。
何か海賊がらみの事件か、それともナルザル神を信奉する商人の争いかと思いシーアもフィーカも一瞬構える。今日は武器は置いてきているが、素手の戦闘でも街中での海賊崩れ相手であればそうそう後れは取らない自信はあった。
だがふたりの視界に入ったのは、海賊でも商人でもなく先ほどのアウラの男であった。
「ナル……!」
もう一度、まっすぐにシーアを見つめて男はそう言った。
「え、え……?」
自分をそう呼んでいるのだとは気づいたが、状況が理解できず口を開いたまま固まっていると、男はやおら近づきシーアを抱きしめた。そして、触れ合いそうなほどの至近距離で顔を覗き込む。
「……っ!?」
「ああ、ナル……!その紅い瞳、やはりお前だ……。まだ燃えていてくれたか……」
痛いくらいにきつく抱きしめ大きく息を吐くと、男はシーアに縋るように抱きついたまま崩れ落ちて膝をついた。
「あ、あの……」
「神は我らの太陽をお守りくださった……」
「あなたは……?」
気持ちを落ち着けるために深呼吸しながらも崩れ落ちた相手の目線まで腰を落とし、シーアは恐る恐る男へと問い返した。なぜだかわからないが、見知らぬ大男に抱きつかれても嫌な感じはしなかったのだ。
そして何か、何かが苦しいくらいに心を締めつけている。
「……覚えて、ないのか……。そうか、無理もない……」
そう言いながら男はシーアの額に何やら指先で印を描き、髪をわしゃわしゃとなでた。
額に描くはケレルの守りのまじない。そんな風になでてくれる人は……
その瞬間、シーアの脳裏に爆発するように記憶があふれ出た。
乾いた草原の香り。
優しく自分を呼ぶ家族の声。
大きなゲルに満ちる食事の匂い。
少しごわごわするけれど暖かな毛布。
響く羊の鳴き声。
昇っては沈む雄大な太陽。
大人たちの猛々しい叫び。
代わる代わる抱きしめられた感覚。
兄の背中。兄の手。兄の声。兄の……
「……ゾ、ン……兄、ちゃん……?」
シーアの震える唇から言葉が発された。
「!! ナル……そうだ、兄ちゃんだ」
兄と名乗った男…ゾンはそれを聞いて深くうなずき、声を震わせるともう一度しっかりと弟を抱きしめた。途端に懐かしいアジムステップの風を感じ、シーアもまた声を詰まらせ兄を抱きしめ返した。どんな深手を負っても泣きはしなかったその目から、堪えきれず透明な滴が零れ落ちる。
「兄ちゃん、兄ちゃん、会いたかった……。なんで、なんで俺忘れて……」
「いいんだ……つらかったんだな……。もう、もう大丈夫だ」
弟を支えるようにして立たせると、ゾンは優しく微笑みかけた。シーアの涙を指先で拭い、その涙が止まるまで何度も髪や角をなでた。
しばらく嗚咽を漏らしていたシーアは、やがてごしごしと手の甲で顔を拭うと、兄を見つめて破顔した。
いつの間にか兄とはほとんど目線が同じになっていたが、それでも遙か高くを見上げるような思いがシーアにはあった。
シーアの涙が止まったのを見届けると、ゾンはその手を握り、ぐっと引いた。
「さ、兄ちゃんと帰ろう」
「あ!え、待って、兄ちゃん」
そこでようやく、大男ふたりの街中での涙の抱擁をある意味ふたりよりも呆然と見ていたフィーカのことを思い出し、シーアは「ごめん」と軽く左手を差し出して相棒へ謝った。
「どうした」
「俺、兄ちゃんに紹介したい人がいるんだ」
「紹介したい……人?」
訝しげなゾンにまったく気づかず、シーアは無邪気にフィーカの手を引いて自分の前に押し出した。
「俺のとても大切な人、相棒のフィーカ・レグン。俺はフィカさんって呼んでる」
その言葉を聞いた瞬間のゾンの表情の変化にシーアはまったく気づかなかったが、フィーカにはしっかりとその感情が読み取れてしまった。獣のような、警戒と威圧。
2mを優に超えた戦化粧の男の発する威圧感は半端ではなかったが、長く騎士として前線に立っているフィーカを怖気づかせはしなかった。一礼して、ただ静かに相手をまっすぐに見上げる。
その思わぬ視線の強さに、ゾンは警戒心を増した。
「……今まで弟が世話になったそうで、礼を申し上げる」
ゾンは強い語調であえて過去形で語った。それを聞いたフィーカの眉根が一瞬ぴくりと反応し唇が何やら動いたが、何の音も届かずゾンはまた表情を険しくした。
「ああ……フィカさんは、ケガで声が出ないんだ。今はきっと、よろしくお願いしますと言ったと思う」
おそらくそうは言ってないとゾンは直感的に思ったが、フィーカはあえてそれに乗るかのように柔和な微笑みを向けてみせた。そうするとフィーカは、着ると華奢に見えるせいもあっていかにも優しげな印象になる。ゾンにとってその姿は非常に頼りなく思えた。
「よかった。ふたりも仲良くなってくれたら俺嬉しいなあ!そうだ、兄ちゃん、今日これからそこのレストランでフィカさんと食事なんだ。聞いてみるから、大丈夫そうなら三人で食べよう!」
その瞬間、思わずゾンとフィーカは顔を見合わせては反らし、同時に小さなため息をついた。